自分が主張する意見の内容を、そのときの立場や状況に合わせ、変幻自在に置き換えていくという発想が、どうにもなじまない。
はっきりいえば――
嫌いである。
そういう置き換えを思考のトレーニングの一助にしている人たちが、主に英語圏に多いことは知っているが――
自分でやろうとは思わない。
思考のトレーニングとしてではなく、単なる遊びやゲームとしてなら、それなりの価値を認めてもよい。
言葉で遊んだりゲームをしたりすることは、言葉の扱いに慣れている者には、極上の楽しみだ。
が――
僕は、そこに若干の倫理上の問題を見出す。
「倫理上の問題」というのは、少々、大げさかもしれない。
もう少し具体的にいえば、
――「まず結論ありきの思考法」がこびりつく。
ということである。
英語圏の議論では、まず結論の提示が求められる。
だから、こうした懸念は重視されないのであろう。
が、僕は重視する。
まず結論を定め、ついで論点を固めていく手続きは、意見を表明するときには美徳でも、意見を練成するときには悪徳である。
思考において最も大切なことは、意見の練成であって表明ではない。
意見の練成よりも意見の表明を重くみることは、例えば、料理の味付よりも料理の盛付を重くみることに等しい。
あるいは、こうもいえる――
意見の表明は、その場限りで終わってしまうが、意見の練成は、人が生きていく限り、未来永劫、続けられる、と――
もちろん――
料理の盛付が大事なことはある。
あるいは――
その場限りが大事なこともある。
が、どちらがより根源的かと問われれば――
判断に迷うことはあるまい。