見え透いたウソを笑って見すごしてあげる優しさというのは――
そう簡単には実践できるものではありませんよね。
相手のウソの動機が気になって――
それどころではなくなるからです。
だから――
いかなる人間関係においても、ウソは悪だと、僕は思うのですが――
古くから、
――ウソも方便
などという言い回しが、まことしやかに広まっておりますから――
世間からウソが消えることはないでしょう。
上手なウソならよいのです。
コロっと騙されてあげればよい――
が、上手なウソばかりつけるほどに頭の良い人は、そうはいません。
下手なウソをつかれると、その相手の動機が気になって――
で、その懸念は、たいていの場合、自分の負の感情と結びついていますから――
下手なウソをつかれたら、高い確率で人間関係のトラブルを誘発します。
相手も自分も巻き込んだ深刻なトラブルです。
だから――
見え透いたウソを笑って見すごす優しさが大事なのですよね。
いま「優しさ」といいましたけれど――
それって、本当に優しさなんでしょうかね。
単にウソをついている相手を瞬間的に無視しているだけのような気もしますが――
優しさはというのは、常に良いものではないということでしょう。
たしかに、中途半端な優しさは、ただの優柔不断であることが多いように思います。
見え透いたウソを笑って見すごすのは、実は「優しさ」ではなく、「厳しさ」なのかもしれません。
少なくともその瞬間は、ある意味で相手を切り捨てているのですから――