マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

和みの笑い

 世間のことなどを主観的に眺めるクセがついていると――
 自分のことがモノ凄く特別な存在に思えてきます。

 が――
 それを、ひとたび客観的に眺めるように心がければ――
 自分のことが、とるに足らぬチッポケな存在に思えてきます。

「客観的に」というのは――
「世間における自分の立ち位置を冷徹に見極めて」といった程度の意味です。

 ちなみに、「主観的に」というのは「世間における自分の立ち位置を見失ってしまって」くらいの意味ですよ。

 で――
 この「客観的に」は、実は「自虐的に」と表裏一体です。

 よって、「客観的な態度」が、ときに他人をひどく困惑させることがあります。
「客観的に」が「自虐的に」にすり変わってしまうと、そうなってしまうのです。

 真に客観的であるためには、自虐も自惚れもない視線で、自分自身を冷静に凝視していなければなりません。

 そうした態度に和みの笑いの素地があると、僕は思っています。
「和みの笑い」というのは、外来語でいうと、「ユーモア」です。

    *

 以下は昨日の新聞の記事で知ったことです。

 昨年の11月――
 落語家の春風亭小朝さんが独演会を開かれたそうです。

 独演の枕に切り出されたのは――
 ストーカーじみた女性ファンに追われる若手落語家の話でした。

 その話の後で――
 小朝さんの口から、いわゆる男女の思いのスレ違いの恐さが淡々と語られると――
 会場は、一瞬の間をおき、笑いが弾けたそうです。

 一昨年に離婚した元奥さんとの騒動がワイドショーを賑わせていた頃でした。

 弾けた笑いは、観客の多くが、そのことを多少なりとも意識していたためでしょう。

 ところで――
 その新聞の記事の筆者によれば――
 男女の行き違いについての小朝さんのコメントには、釈明の響きがあったそうです。

(なるほど――)
 と、僕は思ったのですね。

 釈明というのは、客観的な態度で行わないと、なかなか効力を持ちません。
 自虐的に述べられると、きかされたほうはリアクションに困ってしまう――

 それが釈明にも聞こえたということは――
 そのときの小朝さんには、客観的な態度が十分に備わっていたのでしょう。

 つまり――
 会場に弾けた笑いは、「ユーモア」という名の和みの笑いであったに違いありません。