マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「英語を選ぶ」ということは、同時に

 英語教育の低年齢化が進みそうですね。
 
 昨今では、
 
 ――小学校の低学年や中学年から英語を学ばせるべきだ。
 
 との意見が勢いを持ち始めているのだとか――
 それも、従来の「読み」「書き」に偏った英語教育ではなくて、「聞き」「話し」にも注力する英語教育なのだそうです。
 
 21世紀になって――
 英語は、確実に世界共通語になりつつあります。
 
 日本の国益を考えると――
 英語教育が熱を帯びることは、少なくとも疎かにされるよりは、好ましいことだと思います。
 
 が、その前に――
 ちょっと考えなければならないことがあって――
 
 それは、
 
 ――英語を選ぶ。
 
 ということは、同時に、
 
 ――日本語を捨てる。
 
 ということであると、もっと強く意識すべきではないか、ということです。
 
 もし、小学校の低学年から「読み」「書き」「聞き」「話し」の全てを英語で始めたら――
 その分、日本語で「読み」「書き」「聞き」「話し」をする機会が間違いなく減ります。
 
 そうした経験を子供時代に経た人たちは――
 おそらく、今の人たちよりも日本語の技能は確実に落ちるでしょう――もちろん、英語の技能は確実に上がっているとは思いますが――
 
 当然ながら、
 
 ――なに、英語も日本語も頑張って勉強すればよい。
 
 という向きもあるかとは思います。
 
 が――
 そうした欲張りは、一部の語学の天才・秀才を除けば、容易には実現しえないものです。
 
 母国語も外国語も高度な技能を維持するというのは――
 ふつうの人には夢物語なのです。
 
 英語を選べば――
 日本語は捨てざるを得ません。
 
 僕は「日本語を捨てるな!」ということが、いいたいのではありません。
 
 それが時代の流れならば、
(仕方がない)
 と、僕は思っています。
 
 大切なのは――
 捨てる前に「捨てる」を、社会の総意として、強く意識することです。
 
 はたして、いま英語教育の低年齢化を推し進めている人たちに――
 日本語を捨てようとしていることへの意識があるのかどうか――
 
 もっといえば――
 日本語を捨てる覚悟ができているのかどうか――
 
 そこが――
 ちょっと気になっています。