マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

英語の学びの誤解

 早期の英語教育の賛否について考えていて――
 思い当たったことがあります。

 それは、
(早期の英語教育の意義をことさらに否定する人たちの中には、英語の学びを“英語・日本語の可換性”の学びと誤解している人が、少なくないのではないか)
 ということです。

 少なくとも20年くらい前までは――
 英語教育の現場の主流は、中学校・高等学校などの学校でした。

 学校の英語教育は――
 長らく“英語を日本語に置き換えること”(和訳)ないし“日本語を英語に置き換えること”(英訳)に重点が置かれてきました。

 語学の勉強の本質からは、ちょっとズレていたのですね。

 そうした状況は――
 ここ10年くらいで、だいぶ改善されてきたようではありますが――

 それでも――
 つい“置き換え”に拘ってしまう教師や生徒は――
 今も決して少なくはないといいます。

 ……

 ……

 僕は――
 きのうの『道草日記』で、

 ――例えば、主に日本語を学び、たまに英語を学ぶくらいがよい。

 といった主旨のことを述べました。

 ――「赤ん坊に英語を学ばせるのは言語道断である」とは必ずしもいいきれない。

 と――

 ここでいう「英語を学ぶ」とは、英語を英語として学ぶ――英語をコミュニケーションの手段として扱うことに慣れていく――という意味です。

 決して「英語・日本語の可換性を学ぶ」ということではありません。

 ……

 ……

 誤解のないように述べておきますと――

 僕個人は――
 異なる言語の可換性は、
(たしかに興味深いテーマではある)
 と思っています。

 が――
 そんなことに関心をもつのは――
 10代も後半になってからで十分です。

 まずは日本語を日本語として学び――
 余裕があれば、英語を英語として学ぶ――

 その上で――
 英語を日本語に置き換えたり、日本語を英語に置き換えたりすることに興味が出てきたら――
 それは、それでよい――

 もし――
 それら“置き換え”を乳児・幼児期から学ばせるのだとしたら――

(それは言語道断だ)
 と――
 僕も思います。