マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「もの」と「こと」との違いを指摘されて衝撃を覚えるのは

 いわゆる「もの」と「こと」との違いというのは――
 初めて指摘を受けた人には、ある種、衝撃的といってよいでしょう。

 事実、僕も、そうした指摘を受けたときには、衝撃を覚えた記憶があります。

 その理由は、一つには、欧米の言語に「もの」と「こと」との区別がないことが挙げられましょう。
 例えば、英語では「もの」も「こと」も、どちらも「thing」です。

 僕ら日本人は、幼年期に日本語を無意識に学び始め、思春期には外国語(多くは英語)を通して日本語をみつめなおし、さらに深く日本語を学び直します。

 その過程で――
 日本語には「もの」と「こと」という2つの言葉があり、英語の「thing」に含まれる2つの意味が個々に認識されている――
 という事実が――
 おそらくは、過度に新鮮に感じられるのです。

 そのように感じて初めて――
 僕ら日本人は、「もの」と「こと」との違いを改めて吟味してみよう、という気持ちになるのでしょう。

 僕の理解では――
 あくまでも、日本語を母語とする一個人の理解では――
「もの」とは、

 ――そこに存在する(存在した)物質

 です。

 また――
「こと」とは、

 ――いつか発生する(発生した)事象

 です。

 つまり、「もの」では、それが占める空間が本質であり、「こと」では、それが起こる時間が本質です。

 あるいは――
「もの」については、つねに「どこ?」と問うことができ――
「こと」については、つねに「いつ?」と問うことができる――
 そういうことです。

 もちろん――
「どこ?」とか「いつ?}とかと、観念的に――あるいは比喩的に――問うこともできるので――
「もの」と「こと」との違いは、そう簡単ではありません。

 その説明だけで大著を書き上げることもできるでしょう。

 大著を書き上げるつもりはありません。

 ここで僕がいいたいのは――
 僕ら日本人にとっては、「もの」と「こと」との背景には、そのように簡単には説明のつかない違いが潜んでいるらしいということを知っているか知っていないかで――
 世の中の見え方は大きく変わってくるだろうということです。

 たぶん、「もの」と「こと」との違いに思いを馳せるだけで――
 世の中の様々な事物に対する理解を深めることができるのです。

 逆に、その違いに思いを馳せない――あるいは、思いを馳せる術も知らない――のなら、世の中の多くの事物に対する理解が浅いままで終わるでしょう。

 僕ら日本人が「もの」と「こと」との違いを指摘されて衝撃を覚えるのは――
 この違いを知らないことによる当惑や混迷の深刻さが無視できないからだと思うのです。