マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

社会的存在としては全く違わないのに科学技術への適応性という観点からは全く違う

 街中を歩いていたら――
 明治時代の写真を大写しにした看板広告が目に入りました。

 その写真の中の人物をしげしげと見ていると――
 その顔が、意外にも、現代の日本のあちこちで見かけるような顔だったので、
(明治でも平成でも、日本人は、そんなには変わってないんじゃないか)
 と、一瞬、思ったのですが――

 すぐに――
 その人物の着ている衣装や佇んでいる背景が、現代では、まずお目にかかれないような代物だと気づき、
(やっぱり全然、違うだろ)
 と思い直しました。

 おそらく――
 明治の日本人も平成の日本人も、社会的存在としては、そんなには違わないのですが――たぶん全く違わないのですが――
 科学技術への適応性という観点からは――たぶん全く違うのです。

 もう少し象徴的な言い方を試みるために、

 ――もし、明治の日本人に、平成の日本のTVドラマをみせたら、どうなるか。

 ということを考えてみます。

 不確定要素を減らすために――
 そのTVドラマは、明治の日本を舞台にした歴史物のドラマとしましょう。

 明治の日本人は――
 そこで描かれる人間模様をみて何を思うでしょうか。

 ……

 ……

 おそらく、

 ――我々のことを、案外よくわかっているではないか。

 と思うのではないでしょうか。

 もちろん、細かな点では、

 ――これは、おかしいぞ!

 と笑われるところも多々ありましょうが――
 本質的な点では、意外に深く共感してもらえるのではないかと思います。

 が、そのように共感してもらえる前に――
 明治の日本人は、そのTVドラマを供覧する映像機器に度肝を抜かれることでしょう。

 ――なんだ、これは?

 と――

 ――こんな小さな薄い箱で、ここまで奥ゆきのある画を動かしてみせるとは!

 と――

 同じことは――
 僕らが100年、200年先のTVドラマ――TVドラマに相当するもの――を見たときにも、いえるでしょう。

 その“TVドラマ”が平成の日本を舞台にした歴史物のドラマであるならば――
 僕らは、そのことを即座に理解した上で――
 そこで描かれる人間模様に、意外に深く共感できるに違いないのですが――

 でも――
 その“TVドラマ”を供覧する“映像機器”に度肝を抜かれることは――
 ほぼ間違いないと思います。

 ――なんだ、これは?

 と――

 ――こんな○○な装置で、ここまで△△な映像を◇◇してみせるとは!

 と――

 社会的存在としては全く違わないのに科学技術への適応性という観点からは全く違う、というのは――
 そういうことです。