既婚男女の恋愛を描く場合に――
あからさまな逢瀬の場面を描いてしまうと――
なかなか共感は得られないものです。
――他に描くことがあるだろうに……。わざわざ法に触れるようなことを描かなくても……。
とか、
――たしかに恋愛感情は理性では縛れないものだけど、ちょっと、はしたないな~。
とか――
よって――
あからさまな逢瀬の場面ではなくて――
もっと描きやすい場面――例えば、不倫の誹(そし)りを受けないように十分に理性を利かせ、配慮を重ねて会っているような場面など――を描くことで、その既婚男女の許されぬ想いを描こうとする――
そういう意図が成り立ちえます。
それは、さながら――
霧に覆われた松林の断片を描くことで、その松林に立ち込めた霧その物を描くかのような意図――
といえましょう。
長谷川等伯の『松林図屏風』は――
まさに、そんな感じです。
*
長谷川等伯は、織豊期から江戸初期にかけて活躍した絵師です。
等伯が、屏風の横長の画面に描いたのは、散在する松の木のみでした。
しかも墨一色――
その墨色の濃淡が絶妙に配合されているはずですが――
見ようによっては、描きかけの下絵ととることもできます。
その画面の中に、立ち込めた霧の情景を補い描くとき――
その墨絵は紛れもない完成品と映るのです。
確かな湿度を含んだ濃厚な霧を――
僕らは、その画面に感じとることができます。
*
描けることを描くことで、描けないことをも描き切る――
という表現技法があります。
この技法の特長を享受するには――
当然ながら――
描かれていないことを補い描く想像力ないし創造力が必要です。
こうした“補い描く意志”をもつことは決して簡単ではないのですが――
この意志をまったくもっていないと――
ときに主題を主題と理解できなかったり――
完成品を完成品と感受できなかったりします。
なんとも残念な顛末です。
こうしたリスクは――
長谷川等伯の『松林図屏風』に限った話ではありません。
例えば――
ロマンス映画の中で、十分に抑制された既婚男女の恋愛感情が明確に描かれているにもかかわらず――
それとはわからずに、
――脚本が稚拙だ。
と文句を言ったり、
――この監督は、映画を撮る前に、もっと構想を練っておきべきだった。
と批判したりすることが起こりえます。
(そうはありたくないなぁ)
と――
自戒を込めて思います。