マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

豊臣秀吉が大勢の子を成していても

 歴史に“たら・れば”は無意味である――
 とは、よくいわれますが――

 その「無意味」には、2通りの主張があります。

 一つは、実際に起こってしまったことの積み重ねが歴史なのであるから――
 実際には起こっていないことを仮定して歴史を論じても、意味はない――さながら、高層ビルを鉄筋コンクリートで造る際に、ある階から上を木造にするようなものである――
 というもの――

 もう一つは、実際には起こっていないことを1つや2つくらい仮定したところで――
 その後の歴史の流れは変わらない――
 というものです。

 前者の考え方は、論理的には完璧に正しいのですが――
 歴史好きにとっては、面白くない考え方です。

 歴史好きに面白いのは、後者の考え方――
 つまり、

 ――結局は歴史の流れは変わらない。

 という考え方のほうなのですね。

 例えば――

     *

 日本の戦国・安土桃山時代の武将・豊臣秀吉には――
 実子が4人ほどいたとされています。

 が――
 もっとも有名な実子である豊臣秀頼も含めて――
 それら4人全員が秀吉の実子でなかった可能性を否定できない――
 とする立場が有力です。

 なぜか――

 秀吉には数十人から数百人の妻がいました。

 にもかかわらず――
 実子とされる者は僅かに4人であり――
 しかも、そのうちの2人は、秀吉が男盛りの過ぎた晩年の誕生です。

 晩年になるまで、ほとんど子を成せなかったのに――
 晩年になって、急に2人も成したという主張は――
 少なくとも医学的には、きわめて疑わしいのですね。

 おそらく――
 秀吉は、今日でいうところの急性精巣炎などを患い、子を成しにくい体になってしまった、と――
 考えられています。

 ここで――
 一つの仮定をしてみましょう。

 すなわち――
 もし、秀吉が急性精巣炎などの病気に罹(かか)っていなかっ“たら”――あるいは、もし、秀吉が大勢の妻らとの間に大勢の子らを成してい“れば”――
 その後の日本の覇権は、どうなっていたか――

 徳川家康のような武将に覇権を奪われることなく――
 秀吉の子や孫らが覇権を握り続けていたかどうか――
 ということですね。

 もし、秀吉が急性精巣炎などの病気に罹っていなく、大勢の妻との間に大勢の子を成していれば――
 その数は10~30人にはのぼっていたでしょう。

 そのうちの半分が男児であったとして――
 5~15人の跡継ぎ候補を得ていたはずです。

 この跡継ぎ候補の多さは――
 秀吉にとっては災いとなったでしょう。

 寿命が50年と目されていた時代のことです。

 20歳の頃には跡継ぎを決め――
 40歳の頃には――
 その跡継ぎが成人をしていました。

 ところが――
 40歳の頃の秀吉は――
 近い将来、自分が日本の覇権を握ることなど、想像すらしていません。

 かの有名な戦国武将・織田信長が存命中であり――
 秀吉は、その信長の家来の1人に過ぎなかったからです。

 そんな頃に決めた跡継ぎを――
 日本の覇権を握った晩年の秀吉が、最期まで跡継ぎとして受け入れ続けた可能性は、高くありません。

 秀吉は、常識にとらわれず、状況に応じて柔軟な発想をする人物であった、と――
 考えられています。

 おそらく――
 覇権を握る前に娶(めと)った昔なじみの妻(例えば、北政所のような妻)の子よりも、覇権を握ってから娶った若く血筋の良い妻(例えば、淀殿のような妻)の子こそ、跡継ぎにふさわしいと考えたでしょう。

 そして、容赦なく跡継ぎをすげかえようとする――

 このような秀吉の発想が災いし――
 秀吉の跡継ぎ候補らは、秀吉が老いて病に伏せる頃には、苛烈な権力闘争を始めたでしょう。

 その権力闘争は、秀吉が死んだ後には、社会を混乱に陥れる武力闘争に発展したでしょう。

 その結果、秀吉の跡継ぎ候補らは全員が世間の支持を失い――
 結局は、徳川家康のような別の武将に覇権を奪われたでしょう。

 つまり――
 秀吉が急性精巣炎などの病気に罹っていなかったことを仮定したくらいでは、歴史の流れは変わらない――
 という結論になります。

 歴史好きにとっての、

 ――“たら・れば”は無意味である。

 の「無意味」とは――
 このような主張です。