討論を生業(なりわい)にする人は、
――討論はするが喧嘩はしない。
の規範を大切にするのがよい――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
たまに、
――喧嘩はするが討論はしない。
という人をみかけます。
これは――
よいことではありませんね。
討論をしない理由として――
少なくとも次の2つが考えられます。
1) 討論をするつもりがない
2) 討論をしたくてもできない
1) の場合は――
道徳的な責任を問われるでしょう。
要は、
――口より先に手が出る。
ということですから――
かなり初歩的な段階で人の道を外すことになります。
2) の場合は――
言語能力の支障を疑われるでしょう。
言語は思考の基盤です。
よって――
言語能力の支障は思考内容の貧困化をもたらします。
……
……
――喧嘩はするが討論はしない。
という人のほとんどは――
実は、
――討論と喧嘩との区別がついていない。
と――
僕は思っています。
まれに――
政治家などの討論を生業としているはずの人たちの中にも――
なぜか討論をしようとしない人がいます。
そういう人は――
喧嘩をすることで、討論をしているつもりになっているようです。
(そうじゃないんだけどなぁ~)
と――
僕は思いますが――
そう思わない人も――
けっこう少なくはないようです。
……
……
そもそも、
――討論とは何ぞや?
が、わかっていなければ――
たしかに、討論と喧嘩との区別をつけられないのは、仕方のないことです。
……
……
討論の素養を培うことが重要なテーマの一つだといいます。
(皆が皆、討論を生業にするわけでもないのに、おかしな教育だ)
と――
最近まで思っていたのですが――
その真の狙いは、討論の素養を培うことにあるのではなく――
案外、
――討論と喧嘩との区別をつけられるようにする。
というところにあるのかもしれません。
それなら――
たしかに、すべての小・中学生が学ぶに値するテーマといえます。