マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

想像力が豊かで許容度の広い“司会・進行役”

 ――教育者の役割は“公開討論会(symposium)の司会・進行役”のようなものである。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――公開討論会の演者

 が、

 ――教わり育とうとする者

 に相当をし、

 ――公開討論会の聴衆

 が、

 ――教わり育とうとする者の家族

 に相当をします。

 

 ここでいう、

 ――家族

 は、ふつうは、

 ――保護者

 つまり、

 ――教わり育とうとする者の保護者

 です。

 

 よって、

 ――教わり育とうとする者

 が大人の場合には――

 この「教育」という名の“公開討論会”に“聴衆”は、たいていは存在をしません。

 

 つまり――

 子ども向けの教育は、たしかに、

 ――公開討論会

 とみなせますが――

 大人向けの教育は、そうはみなせなくて――

 

 ――非公開の討論会

 とみなすのがよいでしょう。

 

 いずれにしても――

 そこに“聴衆”がいようといまいと――

 教育者の役割が、

 ――討論会の司会・進行役

 であることに変わりはありません。

 

 この「教育」という名の“討論会”において、“司会・進行役”が最も気をつけるべきは、

 ――自分が演者になってはならない。

 ということです。

 

 この“司会・進行役”は、あくまでも“討論”が円滑に進むように、そして、“討論”が盛り上がって面白くなるように、様々な準備を調えるだけです。

 決して自分自身が“討論”に参加をしようとしてはならないのですね。

 

 ただし、“討論”を円滑に進め、かつ盛り上げて面白くするには――

 当然ながら、その気になればいつでも、自分自身も“討論”に参加ができるくらいに、“演者”の立場をよく弁えておくことが必要です。

 

 その際に、“演者”には色々なタイプがいることを忘れてはいけません。

 例えば、

 ――事実のみを淡々と伝えようとする演者

 ――他の演者を厳しく問い詰めようとする演者

 ――新奇の提案で観点を変えようとする演者

 などなどです。

 

 どんな“司会・進行役”も、

 ――自分自身が“演者”であれば、たぶん、このタイプになる。

 という傾向をもっています。

 例えば、

 ――事実のみを淡々と伝えようとする演者

 になりがちな傾向をもっていたりするのです。

 

 が――

 優れた教育者は――

 自分自身と違うタイプの“演者”にも十分な理解を示します。

 

 例えば――

 自分自身は、

 ――事実のみを淡々と伝えようとする演者

 になりがちであっても、

 ――他の演者を厳しく問い詰めようとする演者

 や、

 ――新奇の提案で観点を変えようとする演者

 に対して十分な配慮ができる――

 ということです。

 

 真に、

 ――優れた教育者

 というのは、想像力が豊かで許容度の広い“司会・進行役”なのです。