マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

教育者と教育の対象者との境界

 教育者の役割は――

 教育の対象者が大人であろうと子どもであろうと、

 ――討論会の司会・進行役

 であることに変わりはない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでいう、

 ――教育の対象者

 とは、

 ――教わり育とうとする者

 のことです。

 

 この、

 ――教育の対象者

 は――

 おとといの『道草日記』で述べた通り、

 ――討論会の演者

 であり、

 ――討論会の司会・進行役

 とは、本質的に異なる役割を果たします。

 

 つまり、

 ――教育者

 と、

 ――教育の対象者

 との間には、

 ――討論会の司会・進行役

 と、

 ――討論会の演者

 との間にあるような明確な境界が存在をするのです。

 

 この境界を安易に乗り越えようとすると、“討論会”――つまり、教育――が破綻をしかねません。

 

 とくに、この境界は、“討論会の演者”の側からは――つまり、教育の対象者の側からは――容易には乗り越えられない一方、“討論会の司会・進行役”の側からは――つまり、教育者の側からは――容易に乗り越えられるものですから、“討論会の司会・進行役”――つまり、教育者――にとっては、

 ――自制心が問われる。

 との観点から、殊更に重大な意義をもちます。

 

 学校の先生の中には、児童や生徒、学生に向かって、

 ――あなたたちは私から学んでいるけれども、実は私もあなたたちから学んでいるんだよ。

 という人がいます。

 

 児童や生徒、学生と同じ目線で物をいおうとする社交辞令の趣旨で、そのようにいっているのであれば――

 それは、

 ――教わり育とうとする者に動機を損なわせないようにする技術

 といえます。

 

 が――

 もし、本気で、そのように考えているのだとしたら、

 (それは、ちょっと問題だろう)

 と、僕は思います。

 

 ――教育者が教育の対象者から学ぼうとする

 というのは、

 ――討論会の司会・進行役が討論に参加をしようとする

 ということに他ならないからです。