マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「教わり育とう!」と思い始めていない者は“教育”の対象から外す

 幼い子どもの“教育”では――

 教育対象者が幼い子どもであるがゆえに、

 ――教わり育とう!

 と思い始める前の段階に重点を置かざるをえず――

 幼い子どもが、実際に、

 ――教わり育とう!

 と思い始めた後の段階には、なかなか重点を置くことができない――

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 教育対象者が、

 ――教わり育とう!

 と思い始めた後の段階で大切なことは――

 きのうの『道草日記』で述べた通り、

 ――邪魔をしないようにする。

 ということです。

 

 簡単にいいかえると、

 ――もう教わりたくないな。

 とか、

 ――別に育たなくてもいいや。

 とかと思わせないようにする――

 ということですね。

 

 これこそが、

 ――教育

 の本質でしょう。

 

 つまり――

 幼い子どもの“教育”では本質的な段階へ容易には進めない――

 ということなのです。

 

 が――

 大人の“教育”――あるいは、そんなに幼くはない子どもの“教育”――では、そんなことはありません。

 

 いきなり本質的な段階から“教育”を始めてよいのです。

 

 この対応は――

 教育対象者にとっては、ある意味で、過酷です。

 

 なぜなら――

 大人の“教育”――あるいは、そんなに幼くはない子どもの“教育”――では、

 ――教わり育とう!

 と思い始めていない者は“教育”の対象にならないからです。

 

 たしかに、過酷ですが――

 合理的な対応でもあります。

 

 なぜなら――

 ――教わり育とう!

 と思い始めていない者を“教育”の対象に強引に据えてしまうと――

 その者が“教育”の全てを忌み嫌ったり、恐れ怯んだりするようになるからです。

 

 教育従事者にとって――

 そのような心理状態に教育対象者を――あるいは、教育対象者の候補を――追い込むことは、絶対にやってはいけないことでしょう。

 

 なぜなら――

 今のところ、

 ――教わり育とう!

 と思い始めていないからといって――

 これからも、ずっと思い始めないとは限らないからです。

 

 いつかは、

 ――教わり育とう!

 と思い始めるかもしれない――おそらくは、未来永劫いつまでも思い始めない可能性よりは、何かの拍子で急に思い始める可能性のほうが、ずっと高い――

 人は、わりと気まぐれな生き物なのです。

 

 が―― 

 その者が、もし、“教育”の対象に強引に据えられた結果、“教育”の全てを避けるようになってしまえば――

 取り返しはつかないでしょう。

 

 大人の“教育”――あるいは、そんなに幼くはない子どもの“教育”――において――

 まだ、

 ――教わり育とう!

 と思い始めていない者を“教育”の対象から確実に外すことは――

 一見、過酷な対応ですが、長い目でみたら、合理的な対応であり、むしろ、寛大な対応といえます。