マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“教育”の本質は“邪魔をしないようにする”

 ――教育

 の本分は、

 ――教わり育つ

 の実態を伝えることではなくて、

 ――教わり育とう!

 と思っている者を助けていくことである――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この、

 ――教わり育とう!

 と思っている者を、

 ――助ける

 というのは――

 実際には、

 ――邪魔をしないようにする。

 ということである――

 ということも、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――邪魔をしないようにする

 ということが、

 ――教育

 の本質である、と――

 僕は考えています。

 

 ――教わり育とう!

 と思っている者の邪魔をしないようにするとは、具体的に、どういうことか――

 

 ……

 

 ……

 

 簡単にいってしまうと、

 ――もう教わりたくないな。

 とか、

 ――別に育たなくてもいいや。

 とかと思わせないようにする――

 ということです。

 

 では、

 ――もう教わりたくないな。

 と思わせないようにするには、どうしたらよいでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 まだ教わるに値することが依然として残されている、ということを十分に感じさせることです。

 

 ――すでに、こういうことを教わった。しかし、まだ、ああいうことは教わっていない。

 と思わせる――

 

 ただし、

 ――まだ教わっていない。

 と感じることは、多すぎても、少なすぎても、いけないのですね。

 多すぎれば諦めてしまうし、少なすぎれば驕(おご)ってしまう――

 

 そうならないように教育の環境を巧みに調えていくことで、

 ――もう教わりたくないな。

 と思わせないようにするのです。

 

 では、

 ――別に育たなくてもいいや。

 と思わせないようにするには、どうしたらよいでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 これからも育っていこうとし、かつ実際に育っていく者が自分以外に存在をする、ということを十分に感じさせることです。

 

 ――自分以外には育っている者は誰もいない。

 と感じてしまえば――

 人は、つい手を抜いてしまったり、頑張るのをやめてしまったりするものです。

 

 ――自分以外にも育っていこうとする者がいるとわかっているから、教わり続けることができる。

 というのが、おそらく――

 教わり育とうとする者のほぼ全員が抱く本音です。

 

 よって――

 教わり育とうとする者が孤独感を覚えずに済むような教育の環境を整えることで、

 ――別に育たなくてもいいや。

 と思わせないようにすることができます。