――「教育」とは「影響」である。
と、おとといの『道草日記』で述べました。正確には、
――「教育」とは「今の世代が次の世代に及ぼしうる影響」である。
です。
僕が、
――「教育」とは「影響」である。
と、あえて断定をしたのは、
――教育というものは、決して狙った通りの効果をもたらさない。
と考えているからです。
例えば、我が子を真っ当な科学者にしようと思い、事実に基づいて論理的に考えることの大切さを様々に教えたのだけれども、その子は、空想的な事実に基づいて反実仮想で論理的に考えることを好むようになり、ついにはファンタジー映画の監督になってしまった――というようなことが起こりうるのです。
我が子を真っ当な科学者にしようと思った親は、当然のことながら、空想的な事実に基づくのではなく、実験や観察で認識される事実に基づくことの必要性を教えていたはず、かつ、反実仮想で論理的に考えるのではなく、現実即応で論理的に考えることの妥当性を教えていたはずですが――そのようなことの全てが我が子に伝わるとは限らないのです――
むしろ、全てが伝わることのほうが珍しいと思っておいた方がよい――
それゆえにこそ、僕は、
――教育
とは、
――教え育てること
ではなく、
――教わり育つこと
であると思っています。
人は、決して思った通りには教えられず、狙った通りには育たない――人は、人から教わる際には、何らかの取捨選択をするものだし、また、人が育つ際には、結局は当人が育ちたいようにしか育たない――そう思っています。