マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

幼い子どもの“教育”に潜む矛盾

 ――教育

 という営みは――

 その対象が大人の場合よりも、子どもの場合のほうが――

 ひと手間、加わる分、より複雑である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その、

 ――ひと手間

 というのは、

 ――教育

 という営みの実態を伝える――

 という手間です。

 

 一般に、

 ――教育

 というときに――

 この、

 ――“教育”の実態を伝えること

 が、かなりの重みを占めているように、僕には思えます。

 

 それは――

 考えてみれば当たり前のことでして――

 

 ――教わり育つ

 ということがどういうことかもわからないのに、

 ――教わり育とうとする者

 になるわけがないからです。

 

 少なくとも幼い子どもの殆どは、

 ――教わり育つ

 ということを、まったく知らないはずです。

 

 よって――

 幼い子どもを教育対象者とする場合には――

 まずは、

 ――教わり育つ

 の実態をきちんと知らせる必要があります。

 

 その上で、

 ――自分も教わり育とう!

 と思わせていく――

 

 が――

 幼い子どもに、

 ――教わり育つ

 がどういうことかを伝えることと――

 その結果、

 ――自分も教わり育とう!

 と思うようになった幼い子どもが、実際に、

 ――教わり育つ

 のを助けていくこと――実際には「邪魔をしないようにすること」――との間には――

 天と地との開きがあります。

 

 そして、

 ――教育

 の本分は――

 当たり前ですが、

 ――教わり育つ

 の実態を伝えることではなくて、

 ――自分も教わり育とう!

 と思っている者を助けていくことにあります。

 

 よって――

 少なくとも、幼い子どもの“教育”では、本分以外のことに重点を置かざるをえないのですね。

 

 つまり――

 幼い子どもの“教育”では――

 幼い子どもが、

 ――自分も教わり育とう!

 と思い始める前の段階に重点を置かざるをえず――

 幼い子どもが、実際に、

 ――自分も教わり育とう!

 と思い始めた後の段階には、なかなか重点を置くことができない――

 ということです。

 

 これは、けっこう深刻な矛盾ではないか、と――

 僕は思っています。