マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

二律背反が“論理の組み合い”を必然とする

 討論が――
 討論として成り立つには、

 ――二律背反

 が必要である――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 互いに二律背反の立場で討論をすれば――
 感情の投げ合いとはなりにくく、むしろ、論理の組み合いにならざるをえないからです。

 ……

 ……

 この“論理の組み合い”というところが――
 少々わかりにくいかもしれません。

 例えば、

  (A) 朝食にはパンがよい

 と、

  (B) 朝食にはパンがよいのではない

 とで討論を行う場合を考えましょう。

 この場合――
 (A)と(B)とは二律背反です。

 よって――
 (B)は(A)の論理的否定ですが――
 (A)もまた(B)の論理的否定ですので――

 どちらにも論理の抜け道がないのですね。

 自分の主張が論理的に正しければ――
 相手の主張は論理的に誤っていることになるし――

 自分の主張が論理的に誤っていれば――
 相手の主張は論理的に正しいことになります。

 つまり――
 とにかく何でもよいから論理を組み立てるだけで、

  自分の主張が正しい
  または
  相手の主張が誤っている

 ことを示せる一方――
 その論理をうっかり組み立て損ねたら、

  自分の主張が誤っている
  または
  相手の主張が正しい

 ことを示しかねないのです。

 よって――
 焦点は、

 ――どんな論理を組み立てるか。

 ではなく、

 ――どれくらい緻密に論理を組み立てるか。

 に移らざるをえなくなります。

 ここで再び、

  (A) 朝食はパンがよい
  (B) 朝食はパンがよいのではない

 の討論を例にとって考えましょう。

 (A)を主張する側も(B)を主張する側も――
 どんな論理を組み立てるかは、まったくの自由です。

 そこで――
 この『道草日記』では――
 ほんの数日前まで、「恋」をテーマにしていましたから――

 ためしに、「恋」に関わる論理を組み立ててみましょうか。

 (A)を主張する側が、

 ――恋をしたら食欲がなくなる。朝に食欲がないときでも比較的に食べやすいのはパンである。よって、人は、いつ恋をしてもよいように、朝食はパンがよい。

 という論理を組み立てたとします。

 (B)を主張する側は――
 この討論に勝つためには、(A)を主張する側の組み立てた論理が誤っていることを示すのが正道であり、近道でもあります。

 例えば、

 ――恋をしたら食欲がわいてくる者もいる。

 とか、

 ――「朝に食欲がないときは無理に食べないほうがよい」という医学的見解もある。

 とかです。

 ところが――
 この“正道”かつ“近道”に気づかず――
 うっかり新たな論理を組み立ててしまうと――

 例えば、

 ――何事も決めつけはよくない。朝食に限らず、食事の内容は偏らず、バランスをとることが大切だ。よって、朝食はパンがよいのではない。

 といった論理を組み立ててしまうと――
 (A)を主張する側から、

 ――なるほど、たしかに決めつけはよくない。しかし、恋は、人であれば誰でも、体験の可能性がある。よって、こと恋に関する限り、決めつけは有効だ。

 などといった反論を受け、頭の中が混乱をする――
 ということになりかねません。

 この反論に有効な反論がなされなければ――
 討論に決着がついてしまいます。

  (A) 朝食はパンがよい
  (B) 朝食はパンがよいのではない

 の討論で――
 「恋」に関わる論理が必須であるはずはないのですが――

 論理の組み合いに、しっかり集中できなければ――
 まったく本質的でない論戦で決着がついてしまうのですね。

 よって――
 二律背反の立場で討論をすれば――
 必然的に“論理の組み合い”となるのです。