マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

生物学の好き嫌いを分けること

 ――真核生物は脇役であり、細菌こそ主役である。

 ということを――
 3日前の『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 たしかに――

 地球上の生命体の――
 今日の在り方や――
 今日までの来し方をみれば――
 真核生物は傍流であって、本流は細菌である――
 といえるのですが――

 おそらく――
 生物学を学んだり究めたりしている人たちの多くは――
 そうは、いわないでしょう。

 ――真核生物こそ主役である。

 というに違いありません。

 実際に――
 今日の生物学で扱わていることの過半は真核生物に関わっています。

 少なくとも細菌に関わっていることが過半を占めているとは、到底いえません。

 このことをどうとらえるかで――
 生物学の見方は大きく分かれるように――
 僕には思えます。

 明確にいえば、

 ――生物学好き

 と、

 ――生物学嫌い

 とに大きく分かれる――
 ということです。

 ……

 ……

 10代の頃――
 僕は生物学が嫌いでした。

 学校の試験の成績は悪くなかったのです。

 というか――
 物理学や化学のほうが、ずっと成績は悪かったのですが――(笑

 だからといって、

 ――よし、生物学を頑張ろう!

 とは――
 どうしても思えなかったのですね。

 (なんか、引っかかる……!)
 と思っていました。

 生物学に対し――
 言葉にできない違和感で――
 胸がいっぱいになっていました。

 いえ――
 ハッキリいいましょう。

 それは「違和感」ではなく、

 ――不快感

 でした。

 魚の骨が喉に引っかかっているときの不快感――

 そんな感じでした。

 ……

 ……

 当時は――
 その不快感の根源が全くわかりませんでした。

 わかってきたのは――
 30代も半ばが過ぎた頃です。

 (ああ、これか……)
 と――
 だんだんハッキリしてきたのですね。

 その“不快感の根源”とは何か――

 ……

 ……

 少なくとも僕にとっての“不快感の根源”は、

 ――原始生命から細菌と古細菌とが分化し、古細菌から真核生物が分化したと考えられているにも関わらず、原始生命のことはほとんど扱わず、真核生物のことばかり扱おうとする。

 ということでした。

 喩えるなら、

 ――プロ野球のナイター中継を試合の途中からみせられる不快感

 です。

 昭和40年代生まれの僕にとって――
 プロ野球のナイター中継といえば、午後7時から放映されるもの――午後6時とか6時半頃から始まった試合の序盤ないし中盤から放映されるもの――でした。

 昭和50年代のナイター中継は――
 それが、ふつうでした。

 (僕の生物学に対する不快感は、たぶん、これと同じだ)
 と――
 今の僕は思います。

 平成も終わる今日でこそ、

 ――試合開始の様子を放映しないナイター中継など、コンテンツとして終わっている!

 との主張は当たり前ですが――

 昭和50年代当時も――
 少数ながら――
 そのように主張する人たちはいて――

 (なんか不快そうにしてるな~)
 と――
 当時の僕も子ども心にわかっていました。

 が――
 実際の僕自身は、当時どうであったか、というと――

 その“コンテンツとして終わっている”はずのナイター中継を――
 嬉々としてみて楽しんでいました。

 そうです。

 気にしない人は、気にしないのです。

 試合の序盤や中盤からの中継であっても――
 本当に野球をみるのが好きなら――

 気にしない――

 ……

 ……

 生物学も同じです。

 原始生命のことを全く学ばずに、いきなり真核生物のことから学び始めたとしても――
 生物をみるのが好きなら――

 気にしないのですね。

 それを――
 気にする人は生物学嫌いになり――
 気にしない人は生物学好きになる――

 たぶん――
 そういうことなのです。