感染症における、
――衆
と、
――我
との混同は――
しばしば起こることです。
かくいう僕も――
ときにゴッチャにしてしまいます。
いわゆる新型コロナ・ウイルス感染症について――
きのうは、“水際作戦”の賛否のコメントを典型例として挙げましたが――
他に典型例を挙げるとすれば――
それは――
やはり、PCR(polymerase chain reaction)検査でしょう。
PCR検査は、
――衆
の視点でみれば――
感度が十分でないために軽症者や無症状者の見逃しを増やしたりする危険性や、実施の過程で集団感染を起こしたりする危険性が無視できず、
――利よりも害の方が大きい。
という結論になりますが――
――我
の視点でみれば――
この検査を受けることによって、自分が感染をしているかもしれないという不安な状況から解放されるかもしれないとか、もし、感染が軽症や無症状のうちに確認できれば、いち早く治療を受け始めることで、より確実に落命を防げるかもしれないとかいった可能性があり、
――害よりも利の方が大きい。
という結論になります。
――衆
の視点で考えるか、
――我
の視点で考えるかによって、論点が変わるので――
これら2つの視点の錯綜は、いたずらに議論を迷わせるだけなのです。
さすがに、ここ1~2週間では――
そのような不毛な議論をインターネットやテレビ・ラジオなどで見聞きすることは、ほとんどなくなりましたが――
先月くらいまでは、しばしば見聞きしていました。
不毛な議論が大幅に減ったのは喜ばしいことです。
ちなみに――
PCR検査の可否あるいは要否について――
“衆”の視点の議論、“我”の視点の議論――いずれも完全には終結していないと、僕は考えています。
例えば――
“衆”の視点でいえば、
――PCR検査は、感度が十分でないために軽症者や無症状者の見逃しを増やす危険性が無視できない。
という主張に対しては、
――見逃しをできるだけ減らすために、3回連続で陰性となった場合に限って「感染なし」と判定するようにすればよい。
という反論が成り立ちえ、
――PCR検査は、実施の過程で集団感染を起こす危険性が無視できない。
という主張に対しては、
――検体の採取を各家庭で行うようにし、各家庭を訪ねる採取者らは頻繁に検査を受けるようにすればよい。
という反論が成り立ちえます。
また――
“我”の視点でいえば、
――PCR検査を受けることによって、自分が感染をしているかもしれないという不安な状況から解放されるかもしれない。
という主張に対しては、
――感度の問題があるために、厳密に「感染なし」と判定されるまでには、少なくとも3~4回は検査を受ける必要があるが、一度、陰性という結果を得て安心してしまった人が、さらに2~3回と追加の検査を受けるだろうか。
という反論が成り立ちえ、
――もし、感染が軽症や無症状のうちに確認できれば、いち早く治療を受け始めることで、より確実に落命を防げるかもしれない。
という主張に対しては、
――今のところ、特効薬などは存在せず、治療は対症療法に限られる。軽症や無症状のうちに有効な対症療法とは、自宅療養に他ならず、それならば、検査を受けることなどは考えず、さっさと始めるのが確実だ。
という反論が成り立ちえます。