感染症を考えるときは、
――衆
の視点と、
――我
の視点とを明確に分ける必要があります。
――衆
というのは、要は「社会」のことで、
――我
というのは、要は「個人」のことです。
「社会」は、「国際社会」といってもよいし、「地域社会」といってもよいでしょう。
「個人」は、「自我」といってもよいし、「プライバシー」といってもよいでしょう。
昨今――
いわゆる新型コロナ・ウイルス感染症に関わる言説やコメントを各種の報道やインターネットでみていると、
(“衆“と“我”とが、ゴッチャになってるなぁ)
と感じることがあります。
典型は、
――「もはやパンデミック(pandemic)は避けられないので、いわゆる“水際作戦”は諦める」という方針は、重症化しやすい高齢者を見殺しにするも同然であり、まことにけしからん!
という高齢者の方の主張です。
――我
の視点では、まことに正鵠を射ていて、多くの人々の情に強く訴えうる主張ですが、
――衆
の視点では、軽症者や無症状者が全体の8~9割を占めていると考えられるために、パンデミックは原理的に防ぎようがなく、「水際」という名の国境線で感染者の入国を完全に阻止するのは不可能である、という認識を無視した主張になっています。
もちろん、
――我
の視点は大切です。
人は皆、
――我
と向き合い、これを心から大切にすることで、例えば、他者を思いやることもできるようになります。
が――
明らかに、
――衆
の視点で議論がなされているところへ、
――我
の視点で主張をねじ込むのは――
不毛といわざるをえません。
確信犯的にねじ込まれるのは仕方がありませんが――
つい、うっかりで、ねじ込まれたものは、
(ちょっと、もったいない)
と感じます。