マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

講義や講演の上手・下手は何で決まるのか

 ――逸脱的思考

 の概念について――

 おとといから『道草日記』で述べています。

 

 この概念に僕が興味をもったのは――

 以下の問題意識が発端です。

 

 ――講義や講演には上手な人と下手な人とがいる。その違いは何なのか。

 

 ……

 

 ……

 

 誤解のないように述べておきますと、

 ――講義や講演の上手・下手

 は、

 ――講義や講演の確か・不確か

 とは別です。

 

 講義や講演が下手でも、その内容は確かで、大いに信じられるとか――

 講義や講演が上手でも、その内容は不確かで、大いに疑わしいとか――

 そうした事例は、いくらでもあります。

 

 もちろん――

 講義や講演が上手であり、かつ、その内容も確かで、大いに信じられる――

 という事例もあります。

 

 が――

 そうした事例は、ごく稀です――例えば、大学で日ごろから講義をしている人たちでみると、おそらく、100人に1人もいないでしょう。

 

 よって、

 ――講義や講演の上手・下手

 と、

 ――講義や講演の確か・不確か

 とは互いに独立と考えるのが自然です。

 

 僕が気になったのは、

 ――講義や講演の上手・下手

 は何に依るのか、ということでした。

 

 ――講義や講演の確か・不確か

 が依るのは――

 その講義や講演を行う者の知識の広さや理解の深さです。

 

 それは、自分で講義や講演をやってみれば、痛感をします。

 

 十分な知識や理解で臨めば、確かな講義や講演ができますが――

 不十分な知識や理解で臨めば、不確かな講義や講演しかできません。

 

 ――講義や講演の確か・不確か

 を決めているのは、演者の知識や理解の程度です。

 

 では、

 ――講義や講演の上手・下手

 を決めているのは、何か――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――“逸脱的思考”の活用の有無

 と考えています。

 

 下手な講義や講演は、思考が単調なのです。

 ひたすら“懐疑的思考”ないし“批判的思考”に終始している。

 

 “懐疑的思考”と“批判的思考”とが適度に入れ代わっているのは、まだよいほうで――

 しばしば、

 ――“懐疑的思考”だけが延々と繰り返される。

 という事例が見受けられます。

 

 そういう講義や講演は、

 ――確か

 ではありえますが、

 ――上手

 ではありえません。

 

 遠慮なくいえば――

 それは、間違いなく、

 ――下手

 です。

 

 講義や講演の上手な人は、“逸脱的思考”を効果的に活かします。

 

 聴衆に、

 ――え?

 と思わせるような思考の逸脱をみせるのです。

 

 なかには、

 ――逸脱ばかり

 という人もありますが――

 よく聴いていると――

 それは、逸脱の頻度が少し高いというだけで――

 それら高頻度の逸脱の前後では、意外に精緻な“懐疑的思考”ないし“批判的思考”で固められていたりします。

 

 本当に“逸脱ばかり”であれば――

 講義や講演の体を成さなくなります。

 

 おそらくは、聴衆の誰からも「講義」ないし「講演」とは認められません。

 

 もちろん――

 そんな講義や講演が、

 ――上手

 であるわけがない――

 

 ――上手な講義・講演

 とは、

 ――精緻な“懐疑的思考”や“批判的思考”に混じって、適度な頻度で“逸脱的思考”が挿まれている講義・講演

 です。