マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

嘉吉の変が「嘉吉の乱」とも呼ばれる理由

 ――「変」か「乱」かの違いは、政権をめぐる争いの閉鎖性ないし開放性に依っている。

 ということを述べています。

 

 きょうは、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 について述べましょう。

 

 ――嘉吉の変

 は、室町期に起こりました。

 ときの幕府の将軍・足利義教(よしのり)が、守護大名・赤松満祐(みつすけ)に殺害をされました。

 足利義教は、赤松満祐の屋敷に招かれ、宴席に着いていたところを、赤松満祐の家臣らによって斬り殺されたと伝わります。

 足利義教は40代後半、赤松満祐は60代でした。

 

 足利義教は三代将軍・足利義満の子で――

 兄・足利義持(よしもち)が幼くして四代将軍になっていたために、自身は幼くして僧侶になっていました。

 

 その後、兄の子であった五代将軍・足利義量(よしかず)が早死にをし、兄・足利義持も亡くなったために――

 将軍の後継者がいなくなりました。

 

 そこで、幕府の重臣たちは、四代将軍・足利義持の弟たちの中から、くじ引きによって選ばれた者を、六代将軍とすることに決めます。

 それによって選ばれたのが足利義教でした――30代半ばのことです。

 

 足利義教は、幕府の威信を高めるために、かなり強引な政治を行ったようです。

 有力な守護大名たちの後継者を全て自分の思い通りに決めようとしたらしいのですね。

 そんな足利義教を、赤松満祐は幕府の宿老として支えます。

 当初は、2人の関係は良好であったようです。

 

 が――

 やがて足利義教が赤松満祐を疎むようになり――

 赤松満祐の領地を取り上げようとしたらしいのですね。

 

 おそらく、それよりも前に、赤松満祐の方が足利義教の強権的な政治手法に愛想を尽かしたのでしょう。

 それを感じとった足利義教が、

 ――逆恨みをした。

 というのが真相ではなかったかと思います。

 

 足利義教は宴席で騙し討ちにあっているので――

 これは、あきらかに、

 ――変

 です。

 

 ふつうに考えれば、閉鎖性の高い争いとみなされます。

 

 が――

 

 ――嘉吉の変

 は、むしろ、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれることのほうが多いのですね。

 

 なぜでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 続きは――

 あすの『道草日記』で――