――いわゆる「歴史の綾」というのは“ケレン味のなさが織り成すケレン味のこと”である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
これは、
――歴史の綾
に限らず、
――歴史全般
あるいは、
――歴史学全般
あるいは、
――学問全般
について――
いえることのような気がします。
――学問、
に、
――ケレン味
は――
ふつうは――
ないのですよね。
――学問
というのは――
思いっきり簡単に述べてしまうと、
――世の中に存在をしている特定の諸現象に着目をし、そられについて十分に観察をし、ときに実験をすることで、それら諸現象に通底をしている原理を見出す営み
となります。
そのような原理を正しく見出すには――
できる限り、ハッタリや誤魔化しをしないことが求められます。
よって――
当然ながら、
――学問
に、
――ケレン味
は、そぐわないのです。
が――
学問には、面白いテーマと、そうでないテーマとがあるのですよね。
面白いテーマで学問の研究がされている場合には――
その学問には、おのずと、
――ケレン味
が感じられます。
もちろん――
その、
――ケレン味
は、きわめて控えめな“ケレン味”であり、何らかの学問的な素地を身につけている人でないと、なかなか感じられない“ケレン味”ではあるのですが――
それが“ケレン味”であることは疑いようがありません。
もう少し具体的にいえば――
研究の過程にハッタリや誤魔化しはないのですが――
そのテーマの設定の仕方には、ハッタリや誤魔化しがあるのですね。
それこそが、いわゆる、
――学問の面白み
であり、
である――
といってよいでしょう。
これを――
僕は、
――教養
の目標の一つと思っています。
いいかえるなら――
――教養のある人
というのは、
に十分に気づいている人のことです。