マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

『Do not stand at my grave and weep』は、なぜ提案なのか

  ――Do not stand at my grave and weep

 の詩は、

 ――提案

 である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 亡くなった人は、墓の中にいるのではなく――

 例えば、風になって辺りを吹いていると考えてみてはどうか――

 という内容の提案である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 これを、

 ――提案

 とはとらず、

 ――主張の押し付け

 ととる人たちもいます。

 

 少なくとも墓の意義を日頃から重く考えている人たちにとっては――

 それは、

 ――主張の押し付け

 に感じられるでしょう。

 

 見過ごすことはできないに違いありません。

 

 が――

 それでも、

(この詩は、あくまでも提案だ)

 と、僕は感じます。

 

 その理由を説くのは、なかなか難しいのですが――

 

 1つは――

 媒体が詩であるということ――

 

 韻を踏んでいるのですね。

 ――Do not stand at my grave and weep,

 ――I am not there, I do not sleep.

 というように、「weep」と「sleep」とが揃えられている――

 

 このような韻が詩の全体にわたって整然と施されています。

 

 このことから、

 (作者は、あえて音遊びをしてみせることによって、読者ないし聴者を慰め、楽しませているのだな)

 ということが伝わってきます。

 

 つまり、

 (意味の伝達は二の次なのだな)

 と――

 

 もちろん、

 ――二の次

 であるからといって、意味の伝達を試みていないことにはなりません。

 

 が――

 少なくとも、そこに力点があるわけでないことは、明白です。

 

 そこに力点を置くのなら――

 あえて媒体に詩を選ぶはずはないからです。