マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

死者の世界に閉じている

 ――Do not stand at my grave and weep

 の詩が、なぜ、

 ――主張の押し付け

 ではなく、

 ――提案

 であると感じられるのかについて――

 3日ほど前から考えています。

 

 きのうの結論は、

 ――亡くなっている人が、まだ生きている誰かのためにではなく、自分自身のために弁護ないし釈明をしていると感じられるから――

 でした。

 

 つまり、

 ――死者の世界に閉じているから――

 です。

 

 もし、これが生者の世界に開いていたら――

 どうであったでしょうか。

 

 おそらく――

 印象は、もっと悪くなったはずです。

 

 ――提案

 ではなく、

 ――主張の押し付け

 と、とられていたに違いない――

 

 ……

 

 ……

 

 ――亡くなった人に語らせる

 という演出は、

 ――外連

 である――

 ということを、4日前の『道草日記』で述べました。

 

 それは、その通りと――

 今も思っているのですが――

 

 ……

 

 ……

 

 この外連が、

 ――外連

 として成立をするには――

 何よりも、

 ――死者の世界に閉じていること

 が必要であったのであろう、と――

 今の僕は考えています。

 

 少しでも生者の世界に開いていたら――

 がぜん生臭くなってしまう――

 

 ――生臭くなる。

 というのは、

 ――まだ生きている誰かの損得勘定が伝わってしまう。

 ということです。

 

 死者の世界に踏み込みで入り、死者を生者の世界へ引っ張り込むことは――

 死者の世界と生者の世界との境目を侵すことです。

 

 それは「損得勘定」以前に、

 ――死者の世界への侵犯

 であり、

 ――死者への冒涜

 でしょう。

 

 そうではなくて――

 

 生者の矩(のり)を超えないように、十分に配慮をしながら――

 ただ、ひたすらに死者の世界に思いをはせる――

 

 ――亡くなっている人のことは、結局はわからない。わからないけれど、ひょっとすると、こんなふうに感じているのではいか――あるいは、こんなことを語りたいと思っているのではないか。

 

 そういう趣向の外連であったから、

 ――Do not stand at my grave and weep

 の詩は、

 ――主張の押し付け

 ではなく、

 ――提案

 の範疇にとどまっていられたのではないか――

 

 そう思います。