――亡くなった人に語らせる。
という演出は、
――死者の世界に閉じている。
という条件を満たす限り、
――外連
として許されうるのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
今、
――死者の世界に閉じている。
と述べました。
ここについても――
相応の留意が必要です。
もし、
――その“死者の世界”が“生者の世界”と対等な関係で隣接をしている。
と、みなすと――
これもまた、
――亡くなった人に語らせる。
という演出を危うい外連に近づけてしまうでしょう。
おそらく、
――死者の世界
は、
――生者の世界
を取り囲んでいます。
いいえ――
たぶん、
――生者の世界
は、
――死者の世界
の一部であり――
――生者の世界
は、決して、
――死者の世界
と対峙をしているのではなく――
実は、独立をしているのでさえなく――
従属をしている――
と――
そのように考えるくらいが――
おそらくは、ちょうどよいのです。
……
……
決して短くはない人類史の中で――
これまでに亡くなった人たちが過ごしてきた時間――人類史の時間――は、まだ亡くなっていない人たちが過ごしている時間――人の一生分の時間――をはるかに凌いでいます。
もちろん――
――死者の世界
と、
――生者の世界
との区別でさえ――
それは、生者の都合であり、願望であるにすぎません。
そのような区別は、実は生者の思い込みにすぎず、本当は実在さえしていないのかもしれないのです。
少なくとも――
そのような感覚をもつことが、
――亡くなっている人に語らせる。
という演出を、少しでも危うい外連から遠ざけることに繋がる――
そう僕は感じています。