マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

『Do not stand at my grave and weep』は、なぜ提案なのか――続き

 ――Do not stand at my grave and weep

 の詩が、

 ――主張の押し付け

 ではなく、

 ――提案

 であると感じられる理由について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その理由の1つとして、

 ――媒体が詩であるから――

 と述べました。

 

 他の理由は何でしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 なかなか難しいところなのですが――

 

 

 僕は、

 (仮に「主張の押し付け」だとすると、その主張が誰の主張なのかが、わかりづらくなるから――)

 ということも理由の1つであると考えます。

 

 今、

 ――Do not stand at my grave and weep

 が、誰かの主張であると仮定をしましょう。

 

 この主張は――

 誰の主張でしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 もっとも単純な解釈は、

 ――墓の意義を重く考えない者

 の主張です。

 

 例えば、

 ――墓などは、どうでもよい。

 と考える者の主張です。

 

 その主張を、

 ――Do not stand at my grave and weep

 の語り手である「I(私)」が弁護ないし釈明していることになります。

 

 ――たしかに、そうなのだ。墓などは、どうでもよいのだ。私は墓にはいない。例えば、風になって辺りを吹いている。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 この解釈には無理があります。

 

 なぜか――

 

 ――Do not stand at my grave and weep

 の語り手が、もっと違った主旨で、かなり明確に、弁護ないし釈明をしているからです。

 

 それは、

 ――私は死んで墓を建てられた身だが、実は墓にはいない。いつでも、あなたのそばにいる。

 といった主旨の自己弁護ないし事後釈明です。

 

 その真意は、

 ――できることなら、死にたくはなかった。

 でしょう。

 

 ――私は、自分が死んで、あなたを悲しませていることを、心苦しく思っている。私は死にたくて死んだのではない。できることなら、死にたくはなかった。だから、例えば、風になって辺りを吹いていたいと思っている。そうやって、いつまでも、あなたのそばにいたいと思っている。

 そういう主旨の主張です。

 

 この主張は――

 たしかに、紛れもなく弁護ないし釈明ではあるのですが――

 

 すでに亡くなっている人が、自分自身のために試みている弁護ないし釈明であって――

 まだ生きている誰かのために試みている弁護でも釈明でもありません。

 

 そういう意味で――

 まったく生臭さの感じられない弁護ないし釈明なのです。

 

 例えば、

 ――墓の意義を重く考えない者

 の代弁をしているようには――

 とうてい感じられないのです。