マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

社会に「不老不死」や「汎症根治」を当てはめると……

 医療や医療を支える医学の目標は、

 ――不老不死

 ないし、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 であり――

 それら目標は、非現実的で、やや後ろ向きである――

 ということを、繰り返し述べています。

 

 医療の世界には――

 そのように暗く、燻(くゆ)っているところがあるので――

 もし、医療の世界に入るのなら、十分な覚悟で臨む必要がある――

 ということも述べています。

 

 以上は――

 基本的には、個人の話です。

 

 医療や医学を患者という個体の事象に当てはめるときに、いえることです。

 

 政治・経済や社会科学を社会という生態の事象に当てはめるときには、少し話が変わってきます。

 

 ――不老不死

 や、

 ――汎症根治

 を、

 ――患者という個体の事象

 に当てはめるから、

 ――非現実的で、やや後ろ向き

 といえるのです。

 

 ――社会という生態の事象

 に当てはめるなら――

 それは、

 ――非現実的で、やや後ろ向き

 とはいえません。

 

 むしろ、

 ――現実的で、やや前向き

 とさえ、いえるのかもしれません。

 

 社会にとっての「不老不死」や「汎症根治」というのは――

 今時のいい方をすれば、要するに、

 ――持続可能性

 です。

 

 より具体的には、

 ――現世の社会の発展を保ちつつも、環境に十分な配慮をすることで、後世の社会の発展をも許すこと

 です。

 

 個体としての患者は、いずれは死にます。

 それが、自然の摂理です。

 

 その摂理を受け入れることは、現実的で前向きといってよいでしょう。

 

 が――

 生態としての社会は、そうではありません。

 

 ――いずれは滅ぶ。

 とは、なかなかいいきれない――

 

 少なくとも、現世の社会を生きる僕らに対し――

 そのように割り切って考える裁量が与えられているとは、ちょっと思えません。

 

 ふつうに考えれば――

 少なくとも、後世の社会を生きるであろう子孫たちに対し――

 自分たちが享受をしえた社会と同様の社会を残していく責務が課せられている――

 そのように考えるのが自然です。

 

 ――不老不死

 や、

 ――汎症根治

 という目標は――

 これを社会に当てはめるとき――

 必ずしも「非現実的で、やや後ろ向き」とはいえなくなるのです。