マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

違いは何か――「不老不死」「汎症根治」と「不衰不滅」「汎憂根絶」と

 ――患者という個体

 にとっての、

 ――不老不死

 や、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 は、

 ――社会という生態

 にとっての、

 ――不衰不滅(ふすいふめつ)

 や、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――不老不死

 以外は、すべて僕の造語です――悪しからず――

 

 念のために、

 ――汎憂根絶

 について、少し補足をしておきます。

 

 ――汎憂根絶

 の「憂」は、

 ――内憂

 の「憂」です。

 

 この「内憂」は、

 ――内憂外患

 の「内憂」です――いわゆる国家の外交問題である「外患」に対し、内政問題を指す言葉です。

 つまり、ここでいう「憂」は、

 ――人の世の中――社会という生態――の内部に存在をしている問題

 を指しています。

 ……

 

 ……

 

 さて――

 

 ――不老不死

 と、

 ――不衰不滅

 と――

 あるいは、

 ――汎症根治

 と、

 ――汎憂根絶

 と――

 いったい何が違うのでしょうか。

 

 実は、

 (本質的には何も違わない)

 と――

 僕は思っています。

 

 が――

 (あることは決定的に違っている)

 とも思っています。

 

 それは何かというと、

 ――数

 です。

 

 正確には、

 ――事例の数

 です。

 

 ――不老不死

 や、

 ――汎症根治

 のことを考えるとき――

 その事例は、きわめて膨大な数です。

 

 厳密にいうならば――

 これまでに地球で生まれ死んでいった――あるいは、これから死んでいく――ヒトの個体の総数に等しくなります。

 

 では、

 ――不衰不滅

 や、

 ――汎憂根絶

 のことを考えるとき――

 その数は、いくつか――

 

 ――1

 です。

 

 人は、自分たちの生態以外に、自分たちと同等か、あるいは、それよりも高等な知性を備えた生命体から成る生態の存在を、知りません。

 自分たちの生態――人の世の中――社会という生態――のことしか、知らないのです。

 

 よって――

 自分たちの生態が、この後、どうなっていくのかが、よくわからない――

 

 自分の個体が、この後、どうなっていくのかが、よくわかっている場合と比べると――つまり、医療における患者の場合と比べると――

 この点が決定的に違っていることに気づきます。