マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“全憂”は“汎憂”なので――

 社会という生態にとって、

 ――全憂根絶(ぜんゆうこんぜつ)

 とは、

 ――浮世の内憂を全て見つけ出し、根本から絶やすこと

 である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ここでいう「内憂」とは――

 4月26日の『道草日記』で述べたように、 

 ――人の世の中――社会という生態――の内部に存在をしている問題

 のことです。

 

 具体的には――

 4月30日の『道草日記』で述べたように――

 例えば、

 ――貧困

 とか、

 ――教育の質の低下

 とか、

 ――ジェンダー不平等

 とか――

 

 あるいは、

 ――働きがいの喪失や経済成長停滞

 とか、

 ――産業の衰退や技術革新の低迷

 とか、

 ――気候変動の脅威

 とか――

 ですね。

 

 これら問題を全て指して、

 ――全憂(ぜんゆう)

 と呼ぶことにします。

 

 そして、

 ――全憂

 は、多かれ少なかれ、互いに通底をしているでしょう。

 

 例えば、

 ――貧困

 と、

 ――教育の質の低下

 とは、同じ問題の表裏と解釈をされることが珍しくありませんし、

 ――働きがいの喪失や経済成長停滞

 と、

 ――産業の衰退や技術革新の低迷

 とも、同じ問題の違った側面とみなされることが珍しくありません。

 

 それゆえに、

 ――全憂

 は、

 ――汎憂(はんゆう)

 なのです。

 

 ……

 

 ……

 

 この、

 ――汎憂(はんゆう)

 を根本から絶やすには、どうしたらよいのか――

 

 つまり、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 を実行に移すには、どうしたらよいのか――

 

 ……

 

 ……

 

 これは――

 かなり難しい問いです。

 

 患者という個体における、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 つまり、

 ――不老不死

 と同じくらいに――

 社会という生態における、

 ――汎憂根絶

 も、かなり難しいでしょう。

 

 が――

 もし、

 ――汎憂根絶

 が実行に移せたなら―― 

 そのとき――

 人の世の中――社会という生態――は、たしかに、

 ――不衰不滅(ふすいふめつ)

 となりうるでしょう。