――“地球上の環境”それ自体が1つの散逸構造である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
実際には、
――地球上の環境
というように――
話を地球の表面ないし表面付近に限る必要はなくて――
地球の内部も含めて考えるのがよいでしょう。
――地球上の環境
は、地殻だけでなく――
地殻の内側にあるマントルや、マントルの内側にある核――地球の核――の状態にも依存ないし関連をしていると考えられるからです。
よって、
――“地球上の環境”および“地球内の環境”
をひっくるめて、
――地球環境
と呼ぶことにします。
つまり――
冒頭の命題は、
――地球環境それ自体が1つの散逸構造である。
と書き換えられます。
……
……
ここ数週間のうちに――
僕は、
(生命は、厳密な意味で、地球環境に従属をしているのではないか――あるいは、地球環境に包摂をされているのではないか)
と考えるようになりました。
この考えは――
要するに、
(地球環境と少しでも違う環境では、生命は誕生をしえないのではないか)
という考えに同じです。
いいかえると、
――生命は「地球環境」という散逸構造の一部に過ぎない。
ということです。
あるいは、
――生命は、この宇宙において、必ずしも普遍的な現象ではない。
ということであり、
――普遍的なのは、散逸構造のほうであって、生命はもちろん、それを含む地球環境のほうではない。
ということであるのですね。
8月23日の『道草日記』で、
――“ケイ素系の生命”はありえない。
と述べました。
これは、
――地球環境と似たような散逸構造は存在をしうるが、その構造の内部において、例えば、ケイ素が主要な役割を演じている構造内構造が存在をしえたとしても、その現象は生命とは似ても似つかない現象であるに違いない。
との憶測から派生をしています。