マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自然科学の研究を志すときの“賭け”

 自然科学の研究において――

 ある領域が、

 ――ほぼ完成をされてしまっている。

 とか、

 ――新たに研究をすることは何もない。

 とかといわれるときは――

 たいてい――

 その領域における実験や観測の技術に限界が感じられているときです。

 

 例えば――

 きのうの『道草日記』で述べたように――

 今から 30 年くらい前には、

 ――宇宙の研究はやり尽くされてしまった。これからは生命の研究だ。

 と、まことしやかに語られていたわけですが――

 それは、当時、宇宙の研究で用いられていた実験や観測の技術に限界が感じられていた一方で、生命の研究で用いられていた実験や観測の技術には特段の限界が感じられていなかったからにすぎません。

 

 実験や観測の技術が停滞をすれば、その領域の研究も必然的に停滞をする――

 それだけのことであったのです。

 

 よって――

 自然科学の研究を志す者は――

 軽々しく、

 ――〇〇の研究はやり尽くされてしまった。

 とか、

 ――これからは〇〇の研究だ。

 とかいったことを口にしないほうがよいのですね。

 

 そうではなくて――

 自分の興味のある領域の研究の実験や観測の技術を調べ――

 それら技術の歴史を調べるのがよいのです。

 

 近い将来――

 その技術は、にわかに進展をしそうかどうか――あるいは、しばらくは停滞をしそうかどうか――

 

 ……

 

 ……

 

 そうした視点は――

 自然科学が実験や観測によって仮説の妥当性を評する営みである以上は――

 不可避です。

 

 この視点をあえて避けたままで、自然科学の研究に邁進をするならば――

 それは、

 ――賭け

 となります。

 

 自然科学の研究を志し――

 それで生計を立てられるようになるかどうかの、

 ――賭け

 です。

 

 実験や観測を行うにせよ、理論を作るにせよ――

 大した違いはありません。

 

 偉大な自然科学者の中には――

 その賭けに勝った者がいれば――

 その賭けから下り、実験や観測の技術の歴史を丹念に調べ、あらかじめ適切な領域を選んだ者もいます。

 

 どちらの自然科学者も――

 自然科学者としての素質に秀で、努力に励んだ点は同じです――ただし、それら素質や努力の方向性は、かなり違っていたはずです。