マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

たとえ、“賭け”に負けたとしても

 ――自分の興味のある領域の実験や観測の技術が限界を迎えているか否か。

 という自然科学の研究を志すときの“賭け”について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 自然科学の研究を志すときに、実験や観測の技術について丹念に調べるのは、かなり難しいことです。

 通常、自然科学の研究を志すのは、早い人で10代――遅い人でも20代です。

 

 10代や20代のときに、ある自然科学の領域の大まかな知見の体系を頭に入れるだけでも大変なのに――

 さらに、その領域における実験や観測の技術の変遷や展開を正確に見極めるのは、並大抵のことではありません。

 

 よって――

 偉大な業績を残した自然科学者のなかには、

 ――そんなこと、最初は調べもしなかった。

 という人が少なからずいますし――

 ――けっこう頑張って調べたつもりだったが、結果的には、不十分だった。

 とか、

 ――ぜんぜん見当違いのことを調べていたことが、あとでわかった。

 とかいう人も少なからずいます。

 

 そういったことも含めて、

 ――賭け

 なのですね。

 

 よって――

 自然科学を志す10代や20代の若い人たちをみかけて、かつ、その人たちを真剣に支えようとするときは――

 この“賭け”の存在をいかに確実に伝えるかがカギになる、と――

 僕は考えています。

 

 確実に伝えることが大切です――“賭け”に勝つことが重要ではない――また、“賭け”から逃げてもよい――

 

 重要なことは――

 そうした“賭け”の存在を知らせずに、無自覚に“賭け”に出てしまうようなことを防ぐことです。

 

 自覚的に“賭け”に出ていれば――

 あとは、どうにかなる――

 

 たとえ、“賭け”に負けたとしても、

 ――私の人生は幸せだった。

 と、あとから振り返ることができます。