マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“理論生理学”が産声をあげるとき

 ――そのうちに実験生理学から「理論生理学」が分派をするかもしれない。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 実をいえば――

 今日においても、

 ――理論生理学

 を名乗る研究が存在をしていないわけではありません。

 

 数学やコンピュータを用いて種々の生命現象を模式的な概念などで表そうとする研究です。

 

 が――

 その、

 ――理論生理学

 が今日、学界で幅広く認知をされているとは、ちょっと、いいがたい状況です。

 

 ――理論生理学

 の研究をしている人たちの気持ちを――

 僕は、よくわかるつもりです。

 

 20代の頃に――

 僕も真剣に関心をもっていたからです。

 

 が――

 同時に、違和感も抱きました。

 

 違和感の本態は、

 ――実験生理学との乖離

 です。

 

 もちろん、

 ――ぜんぜん嚙み合っていない。

 というほどの乖離ではありません。

 

 が、

 ――そういう研究――数学やコンピュータを用いて種々の生命現象を模式的な概念などで表そうとする研究――は、実験生理学の現場から、本当の意味で、必要とされているのか。

 と問われると――

 

 (必ずしも、そうとはいえない)

 と思うのです。

 

 ――本当の意味で必要とされる。

 というのは――

 例えば、

 ――実験生理学で得られた知見が、あまりにも不可思議であり、どのように解釈をしたらよいのかがわからず、皆が困っている。

 というような状況です。

 

 今のところ――

 そのような状況はありません。

 

 実験生理学で得られた知見は不可思議なものも多々ありますが、実験生理学の研究を滞らせかねないほどに不可思議な知見というのは、まだ得られていないのです。

 

 多少、戸惑うことはあっても――

 最終的には、

 ――まあ、それは、そうだろう。

 と納得のいく知見ばかりなのです。

 

 納得のいかない知見が実験生理学で次々と得られ始めたときに、

 ――理論生理学

 は本当の意味で産声をあげる、と――

 僕は考えています。