――権威主義の国ならウソをつくしかない。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
5月6日以降『道草日記』で繰り返し述べているように――
権威主義の体制では、
――政権の運営
は、
――映画の撮影
のように捉えられていると考えられます。
この体制では、「君(きみ)」という名の“制作者”と「民(たみ)」という名の“鑑賞者”とが、互いに相容れない立場として相剋をすることになります。
そして――
君は、民に、
――わかりやすさ
を示し続け、常に満ち足りた気持ちになってもらうべく――
しばしば虚言を弄することになる――
その欺瞞や矛盾が看過をされ難くなって――
権威主義の体制が民主主義の体制に取って代わられたと考えられます。
つまり、
――君と民とに分かれている必要など、そもそも、ないではないか。
という発想が民主主義の原点にある、と――
あるいは、
――もし、政権の運営が本当に“映画の撮影”ならば、その“映画”に“鑑賞者”は存在をしない。全員が“制作者”である。
と――
……
……
この、
――“鑑賞者”と“制作者”との相剋
というのは、権威主義の本質的を的確に表しているように――
僕には感じられます。
たとえ、どんなに民主主義っぽい体制に思えても――
少しでも“鑑賞者”の存在が残されていたら――
その体制は権威主義と本質的に違いはない――
この意味において――
古代ギリシャ・ローマの民主主義は、
――本質的には権威主義であったかもしれない。
と考えられます。
古代ギリシャ・ローマでは、全ての成人に参政権が認められていたわけではありませんでした。
基本的には、
――「奴隷」とみなされていなかった成人男性
のみに認められていました。
参政権のある成人男性が、それ以外の人々の視線――「奴隷」とみなされていなかった成人女性や「奴隷」とみなされていた人々の視線――をどのように受け止めていたのか――
……
……
少なくとも「奴隷」とみなされていなかった成人女性については――
その視線は、“鑑賞者”の視線として、それなりに意識がされていたのではないかと想像をします。
そうであれば――
古代ギリシャ・ローマの民主主義は、
――本質的には権威主義であった。
と、いえるのです