マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

あすの自分は、もう、この世界にいないかもしれない

 ――誰かの命が失われる失敗

 と日常生活において厳しく対峙をしている人というのは――

 そんなに多くない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 日常生活において、

 ――誰かの命が失われる失敗

 に一定の頻度で接している人は――

 そうでない人と比べて――

 世界の見え方が、かなり違っているでしょう。

 

 ――誰かの命が失われる失敗

 に慣れている人は――

 ある意味で、

 ――死

 が身近に感じられています。

 

 ――ある意味で――

 と断りを入れたのは――

 その、

 ――死

 が、少なくとも一義的には、

 ――自分自身の死

 ではなくて、

 ――自分以外の死

 である――

 という意味で限定的であるからです。

 

 ただし――

 人は、

 ――自分以外の死

 に頻繁に触れていると――

 やがて、

 ――自分自身の死

 にも敏感になっていきます。

 

 つまり、

 ――誰かの命が失われる失敗

 に一定の頻度で接している人は――

 そうでない人と比べて、

 ――自分自身の死

 に敏感になっている――

 といえます。

 

 ――自分自身の死

 に敏感になっているからこそ――

 世界の見え方が違ってくるのです。

 

 あすの自分は、もう、この世界にいないかもしれない――

 ということを少し思うだけで――

 世界の見え方は違ってきます。

 

 そう思うことは――

 決して楽なことではなく、また、面白いことでもなく――

 むしろ、つらく、悲しいことなのですが――

 

 いつかは自分も死ぬ身であるということは――

 決して短くはない人の世の歴史において――

 これまでに死なずに済んだ人というのが一人もいないわけですから――

 黙って諦め、受け入れるしかないのです。

 

 それを受け入れた上で、なお――

 この世界のどこを見て、どこに心を動かし、どこへ働きかけていこうとするのか――

 その意図が、世界の見え方に反映をされるのです。