あすの自分は、もう、この世界にいないかもしれない――
ということを少し思うだけで――
世界の見え方は違ってくる――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
世界のどこを見て、どこに心を動かし、どこへ働きかけるのか――
その意図が、世界の見え方に反映をされる、とも――
……
……
あすの自分は、もう、この世界にいないかもしれない――
との思いは――
80代、90代の人たちにとって、より切実です。
80代、90代になっても――
できる限り、社交の場に出ていって、若い人たちと――ときに、まだ幼い子どもたちと――意思疎通を図ろうとする人たちがいます。
そういう人たちは、
――自分に残された時間をこの世界から自分がいなくなった後の人たちのために使いたい。
と考えているようです。
そうすることで、幸せや安らぎが感じられるから――といいます。
とはいえ――
――自分に残された時間をこの世界から自分がいなくなった後の人たちのために使う。
というのは、口でいうほどに簡単なことではありません。
80代、90代になっても社交の場へ出ていって若い人たちとの意志疎通を図るには――
第一に――
そうしたことが十分に可能な状態に心身を保っている必要があります。
残念ながら――
そのように心身を保てている人は、そんなに多くはありません。
80代、90代ともなると――
心身に何らかの重い病気を抱えていることが普通になります。
そして――
心身を幸いにも健やかに保ちえていて、どうにかして社交の場へ出ていけたとしても――
そこで、若い人たちと心地よい交流が楽しめる人というのも、そんなに多くはないのです。
つい若い人たちを見下してしまったり、侮ってしまったりして――
疎まれたり、避けられたりする――
そうならないように――
若い人たちと同じ目線になって、互いの歳の差を忘れ、真に心地よい交流を楽しめる段階になって、ようやく――
自分に残された時間を若い人たちのために――この世界から自分がいなくなった後の人たちのために――使うための準備が整うのです。
その上で――
どうやって時間を使うのか――
そのときに――
あれこれと思いを巡らせることは――
そのまま、その人の自然観や社会観、あるいは人間観や人生観に繋がっています。
要するに――
あすの自分は、もう、この世界にいないかもしれない――
ということを少し思うだけで――
自分の自然観や社会観、人間観や人生観の個性がみえてくるのです。