マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“失われる人命”には2種類がある

 自分自身の命が失われることを予め弁えている事例も含めて、

 ――再起不能

 の定義を考えると――

 ――失われる人命の期待値が 1 以上であること

 という定義では不十分のように思える――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 気になるのは、

 ――失われる人命

 というところです。

 

 本当に「失われる」でよいのか――

 

 つまり――

 自分自身の命が失われることを十分にわかっていて――

 しかも、そのことの回避が不可能であると見積もられているときに――

 その命を、

 ――失われる人命

 に含めてよいのか――

 ということです。

 

 むしろ

 ――失われる人命

 の1つに含めてしまうのは誤謬ではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――失われる人命

 には少なくとも2種類がある――

 といえるのではないでしょうか。

 

 ――失われることが防ぎうる人命

 と、

 ――失われることが防ぎえない人命

 との2種類です。

 

 ――再起不能

 の見落としや見過ごしの問題を考える上で、より本質的なのは、

 ――失われる人命

 のうち、

 ――失われることが防ぎえない人命

 の方ではなく、

 ――失われることが防ぎうる人命

 の方であるのは自明でしょう。

 

 もちろん――

 人命損失という損害の回避は何よりも優先をされて欲しいことですが――

 いかなる損害も人知を超えて回避をすることはできません。

 

 ……

 

 ……

 

 ――失われる人命

 のうち、

 ――失われることが防ぎうる人命

 というのは――

 要するに、

 ――失われなくてもよい人命

 ということです。

 

 よって、

 ――失われる人命の数の期待値が 1 以上であること

 という基準は、

 ――失われなくてもよい人命の数の期待値が 1 以上であること

 といいかえることができます。

 

 この基準をそのまま、

 ――再起不能

 の定義に据えるのがよいのではないか、と――

 僕は思っています。