マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(1)

 藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、天元2年(979年)に藤原道隆(ふじわらのみちたか)の四男として生まれました。

 

 長男・次男は妾腹の子であったので――

 事実上の次男――嫡男に次ぐ男子――でした。

 

 父・藤原道隆の父は、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)といい――

 摂政・関白の地位を実権に基づく確固たる役職に高めることで、いわゆる摂関政治を軌道に乗せた人物として知られます。

 

 藤原兼家は、藤原隆家が生まれた年に右大臣へ昇進をし――

 その 7 年後には、幼い天皇の外祖父となって、摂政の役職に就きました。

 

 その藤原兼家の嫡男が藤原道隆です。

 つまり、藤原隆家は、摂関政治の事実上の始祖である人物の嫡流の家に生まれ育っていたことになります。

 当時の貴族社会においても頭抜けて恵まれた境遇であったに違いありません。

 

 11 歳の頃に―― 

 祖父・藤原兼家が亡くなります。

 

 兼家は 61 年の生涯でした。

 当時としては長命です。

 

 その後を父・藤原道隆が継ぎました――37歳くらいでした。

 

 その前年に、10 歳で元服を済ませていた藤原隆家は――

 同腹の兄であり、父・道隆の嫡男でもあった藤原伊周(ふじわらのこれちか)に従って、父・道隆を支えます。

 

 ところが――

 16 歳の頃に、父・道隆が亡くなります。

 

 あいにく、兄・伊周は 5 歳しか年上でなく、このとき、まだ 20 歳すぎ――

 父・道隆が祖父・兼家の後を継いだように継ぐことはできませんでした。

 

 この頃に台頭を始めたのが――

 叔父の藤原道長(ふじわらのみちなが)です――父・道隆の同腹の末弟でした。

 

 叔父・道長は、隆家より 13 歳年上で、兄・伊周より 8 歳年上でした。

 混迷を始めた政局の乗り切り方には一日の長がありました。

 

 加えて――

 叔父・道長には人望があり――

 兄・伊周には人望がありませんでした。

 

 兄・伊周は眉目秀麗で、容姿には全く申し分がなかったようですが――

 性格に問題を抱えていたようです。

 

 些事に拘るあまり、細かな規則を押し付けようとするなど――

 宮中の人心を掴むことができなかったといいます。

 

 やがて――

 その兄の些事に拘る癖が、隆家の足元をすくいます。

 

 隆家 17 歳の頃のことです。