兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の些事に拘る癖が、藤原隆家(ふじわらのたかいえ)の足元をすくった――
と、きのうの『道草日記』で述べました。
ときに隆家、17 歳――
兄・伊周は 22 歳の頃でした。
ことの発端は――
花山(かざん)法皇(ほうおう)が、兄・伊周の恋人の妹に通い始めたことでした。
伊周の恋人も、その妹も、同じ屋敷に住んでいたために――
伊周は、花山法皇が自分の恋人を奪おうとしていると誤解をします。
――法皇
というのは――
天皇の位から退いた人が出家をした場合の呼称です。
こう述べると――
花山法皇が、ずいぶん年配の男性のように感じられるかもしれませんが――
花山法皇は 15 歳で即位をし、17 歳で退位をしています。
このときは、まだ 27 歳の法皇でした。
22 歳の兄・伊周が、27 歳の前天皇の行動に反応をしてしまったのは、ある程度は仕方のないことであったかもしれません。
しかも――
花山法皇にとって、祖父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は因縁の相手でした。
祖父・兼家が策略を巡らせたからであると考えられています。
花山法皇は、在位中、溺愛をしていた妻を亡くしました。
その急逝を嘆き悲しみ――
にわかに、
――退位して出家する。
と、いいだします。
が――
側近たちは花山法皇の性格を知り抜いていました。
――何日か過ぎれば、すぐに思い直し遊ばれるに違いない。
と考え、翻意を待ったのです。
実際に――
花山法皇は直情的で短絡的に発言をし、行動をする人物であったと考えられています。
そこに――
祖父・兼家が付け込みました。
兼家は、在位中の花山法皇が目障りでした。
自分の影響力が及ばない天皇であったからです。
兼家は、花山法皇が直情的かつ短絡的に「退位をする」といっていることを聞きつけ、自身の三男・藤原道兼(ふじわらのみちかね)を向かわせます。
この人物は、父・道隆とは同腹の兄弟であり、隆家にとっては、藤原道長(ふじわらのみちなが)と同様、叔父にあたります。
叔父・道兼は「私も一緒に出家します」などといって巧みに花山法皇をいいくるめ、直情的かつ短絡的に出家をさせてしまうことに成功をします。
もちろん、道兼は、実際には一緒に出家をせず、「出家前の姿を父・兼家にみせとうございます」などといって首尾よく逃げ出したのでした。
後刻、そのことを知った花山法皇は、
――謀られた。
と悔やんだそうです。
そんな花山法皇が相手でしたから――
兄・伊周は、冷静さを失ったと考えられます。
――法皇が退位の恨みを晴らすため、我々に嫌がらせをしようとしている。
と考えたのではないでしょうか。
すっかり頭に血が上ってしまった兄・伊周から、隆家は、
――どうすればよい?
と相談を受けます。
後年の隆家であれば、
――放っておかれなさい。
と答えたでしょう。
叔父・道長と政権を争っている今――
痴情のもつれに拘(かかずら)っていてよいはずはない、と――
花山法皇が兄の恋人のもとに通っているのなら――
まずは、その恋人に真意を確かめてはどうか、と――
が――
17 歳の隆家の決断は、かなり過激で陰湿でした。
兄の恋人が住んでいる屋敷にやってくる花山法皇に向け、自身の従者たちに矢を射かけさせる――
という決断であったのです。
矢は、実際に花山法皇の衣の袖を射とおしたと伝わります。
胆を潰した花山法皇は、出家の身でありながら女性のもとに通っていた気まずさもあって、襲撃の事実を世に広く訴えることはしなかったそうです。
が――
すぐに噂が広まります。
――伊周・隆家の兄弟が、恐れ多くも法皇さまに弓を引いた。
この噂に付け込むかたちで――
叔父・藤原道長が策略を巡らせたといわれています。
伊周・隆家の兄弟は、二人そろって京の都を追われ――
地方の官職へ左遷をされたのです。
以後――
二人が叔父・道長の権勢を凌ぐことは二度とありませんでした。