マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

藤原隆家のこと(5)

 甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が自身の従者に命じて法皇(ほうおう)に矢を射かけさせたという不祥事を、ときの右大臣にして内覧(ないらん)であった藤原道長(ふじわらのみちなが)が不問に付せなかった理由は、少なくとも二つある――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 それらのうちの一つについては――

 きのうの『道草日記』で、すでに述べています。

 

 ――法皇に弓を引くということは、当代の政権の中枢に矢を射かけるも同然であったから――

 という理由です。

 

 では、もう一つの理由とは何か――

 

 ……

 

 ……

 

 実は――

 隆家の従者が花山(かざん)法皇に矢を射かけ――

 その矢が法皇の袖を射とおした際に――

 花山法皇の従者の童子二名が殺害をされ、首を持ち去られているらしいのです。

 

 殺され、首を討たれたのが、

 ――童子

 であった、というのが――

 衝撃的であったに違いありません。

 

 法皇の従者を務めていた童子です。

 しかるべき良家の子息たちであったことでしょう。

 

 その子息たちが殺害をされ、あろうことか首が持ち去られた――

 

 おそらく――

 隆家の従者が法皇へ矢を射かけた際に小競り合いとなって――

 隆家の従者が相手を童子と気づかずに殺してしまった――

 そのままでは身元が割れてしまうので、やむを得ず首を持ち去った――

 そんなところではないかと想像をします。

 

 もちろん――

 ことの真偽はわかりません。

 

 童子二名が殺害をされ、首が持ち去られたことを伝える史料は――

 限られているそうです。

 

 流言飛語の類いであったのかもしれません。

 

 が――

 そのような噂が立ってしまった時点で――

 隆家には取り返しがつきませんでした。

 

 21世紀序盤の現代のように――

 記者会見を開いて報道陣の質問に残らず答えることで誠意を示す――

 というようなことは不可能でした。

 

 京の都の世論は隆家を完全に見放したはずです。

 

 そうなってしまっては――

 政権の中枢の支配者といえども、救いの手を差し伸べることはできません。

 

 叔父・道長も世論に従わざるを得なかった――

 

 ……

 

 ……

 

 こうして――

 隆家は、同腹の兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)と共に、地方の官職に左遷をされました。

 

 兄・伊周は筑前(現在の福岡県)へ、隆家は出雲(島根県東部)へ、それぞれ赴任を命じられました。

 事実上の配流です。

 

 が――

 翌年には赦され、二人とも京の都への帰参を認められました。

 

 早期の恩赦を引き出したのは――

 おそらくは叔父・道長でしょう。

 

 ひとたび、このような不祥事を起こせば――

 もはや道長を脅かしうる政敵とはなりません。

 

 自身を脅かす恐れがないのなら――

 同腹の兄の息子たちです。

 

 憐憫の情に動かされたとしても不思議はありません。

 

 3 年後――

 道長は、甥・伊周の復位を天皇に願い出て、却下をされています。

 

 位を落とされていた甥のことが不憫であったのでしょう。

 

 また――

 その同じ頃――

 道長は、甥・隆家に、

 ――世間では、左遷を決めたのは私であるということになっているが、実際は違う。すべて御主上(おかみ)がお決め遊ばされたことだ。

 と釈明をしているそうです。

 

 ――あれには参った。どちらに顔を向ければよいのか、わからなくなった。

 と――

 後年の隆家は述懐をしたそうです。