甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が自身の従者に命じて法皇(ほうおう)に矢を射かけさせたという不祥事を、ときの右大臣にして内覧(ないらん)であった藤原道長(ふじわらのみちなが)が不問に付せなかった理由は、少なくとも二つある――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
それらのうちの一つについては――
きのうの『道草日記』で、すでに述べています。
――法皇に弓を引くということは、当代の政権の中枢に矢を射かけるも同然であったから――
という理由です。
では、もう一つの理由とは何か――
……
……
実は――
隆家の従者が花山(かざん)法皇に矢を射かけ――
その矢が法皇の袖を射とおした際に――
花山法皇の従者の童子二名が殺害をされ、首を持ち去られているらしいのです。
殺され、首を討たれたのが、
――童子
であった、というのが――
衝撃的であったに違いありません。
しかるべき良家の子息たちであったことでしょう。
その子息たちが殺害をされ、あろうことか首が持ち去られた――
おそらく――
隆家の従者が法皇へ矢を射かけた際に小競り合いとなって――
隆家の従者が相手を童子と気づかずに殺してしまった――
そのままでは身元が割れてしまうので、やむを得ず首を持ち去った――
そんなところではないかと想像をします。
もちろん――
ことの真偽はわかりません。
童子二名が殺害をされ、首が持ち去られたことを伝える史料は――
限られているそうです。
流言飛語の類いであったのかもしれません。
が――
そのような噂が立ってしまった時点で――
隆家には取り返しがつきませんでした。
21世紀序盤の現代のように――
記者会見を開いて報道陣の質問に残らず答えることで誠意を示す――
というようなことは不可能でした。
京の都の世論は隆家を完全に見放したはずです。
そうなってしまっては――
政権の中枢の支配者といえども、救いの手を差し伸べることはできません。
叔父・道長も世論に従わざるを得なかった――
……
……
こうして――
隆家は、同腹の兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか)と共に、地方の官職に左遷をされました。
兄・伊周は筑前(現在の福岡県)へ、隆家は出雲(島根県東部)へ、それぞれ赴任を命じられました。
事実上の配流です。
が――
翌年には赦され、二人とも京の都への帰参を認められました。
早期の恩赦を引き出したのは――
おそらくは叔父・道長でしょう。
ひとたび、このような不祥事を起こせば――
もはや道長を脅かしうる政敵とはなりません。
自身を脅かす恐れがないのなら――
同腹の兄の息子たちです。
憐憫の情に動かされたとしても不思議はありません。
3 年後――
道長は、甥・伊周の復位を天皇に願い出て、却下をされています。
位を落とされていた甥のことが不憫であったのでしょう。
また――
その同じ頃――
道長は、甥・隆家に、
――世間では、左遷を決めたのは私であるということになっているが、実際は違う。すべて御主上(おかみ)がお決め遊ばされたことだ。
と釈明をしているそうです。
――あれには参った。どちらに顔を向ければよいのか、わからなくなった。
と――
後年の隆家は述懐をしたそうです。