マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

古典を書く意味

 ――古典を読む意味は、人の一生の時間では解けない問題に向き合うためである。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 その逆は、どうでしょうか。

 

 つまり、

 ――古典を書く意味は何か?

 という疑問です。

 

 ここでいう「古典を書く」とは――

 例えば、平安中期の文語の真似をして何か文章を書くということを指すのではありません。

 

 もちろん――

 それは、それで、知的に十分に面白い試みであって――

 純粋に文芸的な意義を見出せるとは思いますが――

 

 今、僕が考えたいのは――

 そういう文芸の遊びのことではありません。

 

 これから先、100 年後、300 年後、1,000 年後まで読み継がれていく文章を今、書く意味は何か――

 ということです。

 

 ――古典を読む意味

 が、

 ――人の一生の時間では解けない問題に向き合うため――

 であるのなら――

 

 ――古典を書く意味

 は明らかです。

 

 それは、

 ――人の一生の時間では解けない問題を世に問うため――

 です。

 

 自分が残りの人生の全て費やしても解けそうにない問題を見つけ出し、世に示す――

 それが、

 ――古典を書く意味

 です。

 

 ――古典を読む意味

 は、かなり私秘的(private)といってよいでしょう。

 

 ――過去の人たちが解き残してきた問題に自分も向き合いたい。

 と切実に思うからこそ――

 人は古典を読むのです。

 

 これに対し、

 ――古典を書く意味

 は、かなり公共的(public)です。

 

 古典を書こうと思ったら――

 どういう問題が、自分にとってだけでなく、自分以外の他の人たちにとっても、普遍的で意義深くなるのか――

 そこを慎重に見極める必要があります。

 

 とはいえ――

 古典を狙って書ける人がいるとは思えません。

 

 例えば、清少納言は『枕草子』が 1,000 年後まで読み継がれると想像をしながら書いたでしょうか。

 

 あの文章を読む限り、ちょっと僕には、そうは思えません。

 

 あくまでも自分にとって切実に感じられる問題を――

 あのような軽妙な文体で表し、読者に示してみたかっただけに違いないのです。

 

 その試みが、たまたま 1,000 年の長きにわたり、読者から支持をされ続けた――

 そういうことであろうと思います。