マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

学問での問い:どのように?

 ――なぜ自我(じが)と自己(じこ)とは別なのか。

 と問うのではなく、

 ――どのように自我と自己とは別なのか。

 と問うのが、

 ――学問(がくもん)

 である――

 と、きのう、のべました。

 

 少し、いいかえるならば――

 

 ――なぜ意識(いしき)は自我と自己とを別に分けているのか。

 と問うのではなく、

 ――どのように意識は自我と自己とを別に分けているのか。

 と問うのが、

 ――学問

 である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――学問

 で、

 ――なぜ?

 と問わないのは――

 

 ――なぜ?

 と問うと――

 答えが出ないからです。

 

 ここでいう「答え」とは――

 多くの人たちが納得(なっとく)をしうる答えのことです。

 

 ――なぜ?

 と問うと――

 一部の人たちしか納得ができない答えしか出ないのですね。

 

 が――

 

 ――どのように?

 と問えば――

 多くの人たちが納得をしうる答えが出ます。

 

 ……

 

 ……

 

 では――

 意識は、どのように自我と自己とを分けているのか――

 

 この問いに答えていきましょう。

 

 ……

 

 ……

 

 そんなに難(むずか)しくはありませんね。

 

 4月22日に、のべたように、

 ――自分自身の心のうち、自分自身で気づける部分

 というのが、

 ――意識

 であり――

 その、

 ――意識

 に、

 ――気づいている“自分自身”

 というのが、

 ――自我

 であり、

 ――気づかれている“自分自身”

 というのが、

 ――自己

 であるわけですから――

 

 ――自我は意識にとっての物差しのような物であり、その“物差し”を当てられている物が自己である。

 といえます。

 

 つまり、

 ――どのように自我と自己とは別なのか。

 という問いへの答えは、

 ――自我と自己とは、“物差し”と“物差しを当てられる物”とが別であるように、別である。

 となります。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』