マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自我は、なぜ無意識から?

 ――自我(じが)は、意識(いしき)にとっての物差しのような物であり、その“物差し”を当てられている物が自己(じこ)である。

 といえることから、

 ――どのように自我と自己とは別なのか。

 という問いへの答えは、

 ――自我と自己とは、“物差し”と“物差しを当てられる物”とが別であるように、別である。

 となる――

 と、きのう、のべました。

 

 ――自我

 は、

 ――意識

 にとっての物差しのようなものである――

 ということは――

 とても大切なことでしょう。

 

 少なくとも、

 ――自我は、なぜ無意識(むいしき)から、できているのか。

 という問いに――

 一つの答えを出してくれます。

 

 4月24日に、ぼくは、

 ――自我

 は、

 ――無意識

 から、できているのではないか――

 と、のべました。

 

 そのように、ぼくが考える理由は、

 ――自我

 が、

 ――意識の物差し

 と、みなせるから――

 です。

 

 もし、

 ――自我

 も、

 ――意識

 から、できているとしたら、

 ――物差しで、その物差しを測る。

 というようなことになってしまいます。

 

 そうしたら――

 おそらく、

 ――意識

 は、きちんとは働きません。

 

 物差しには、ふつう目もりがついていますが――

 

 ――物差しで、その“物差し”を測る。

 というようなときに――

 その目もりが乱れたり、くるったりしていたら――

 まったく、わかりませんよね。

 

 乱れているということ、あるいは、くるっているということ、それ自体が――

 まったく気づかれない――

 

 乱れや、くるいに気づかれなければ――

 

 ――意識

 は、

 ――乱れたままで――

 あるいは、

 ――くるったままで――

 働くことになります。

 

 そのような“心の働き”は――

 その心を宿している“体の働き”を乱し、くるわせるだけではなくて――

 おそらくは、心も体も安全には生きていけないようにしてしまいます。

 

 よって、

 ――自我

 が、

 ――無意識

 から、できている、ということは――

 心にとってだけでなく、体にとっても、とても大切なことにちがいない――

 と、ぼくは考えています。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』