マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「親孝行」の段階の親子関係は、「子慈育」の段階の親子関係と、ふつうの人と人との関係との中間――

 いわゆる「親子関係」から人と人との関係の在(あ)り方を学ぼうと思ったら――

 ――子(こ)慈育(じいく)

 の段階(だんかい)は、あまりよくなくて――

 ――親孝行(おやこうこう)

 の段階まで待つ必要がある――

 と、きのう、のべました。

 

 ――子慈育

 の段階の親子関係では――

 親は子どもと、

 ――仲良くしたい。

 と思っていて――

 その親の気持ちを――

 子どもは無条件(むじょうけん)に受け入れます。

 

 ――親孝行

 の段階の親子関係では――

 親は、変わらず子どもと、

 ――仲良くしたい。

 と思っているけれども――

 子どもは、

 ――仲良くしたい

 とも、

 ――仲良くしたくない。

 とも、

 ――どちらでもない。

 とも思っています。

 

 そして――

 ふつうの人と人との関係では――

 AさんはBさんと、

 ――仲良くしたい。

 とも、

 ――仲良くしたくない。

 とも、

 ――どちらでもない。

 とも思っていて――

 BさんはAさんと、

 ――仲良くしたい。

 とも、

 ――仲良くしたくない。

 とも、

 ――どちらでもない。

 とも思っています。

 

 つまり、

 ――子慈育

 の段階の親子関係と、ふつうの人と人との関係との中間が、

 ――親孝行

 の段階の親子関係である――

 といえるのです。

 

 子どもは――

 まだ十分に育っていなくて、なかなか一人では生きていけないような年令のうちは、

 ――子慈育

 の段階の親子関係に、どっぷり、つかっていますから――

 ふつうの人と人との関係のことを何も学べません。

 

 が――

 そのような段階を抜(ぬ)け出して――

 十分に育ってきて、一人で生きていけるような年令になって、

 ――親孝行

 の段階に入り始めると――

 子どもは、親子関係を通して、ふつうの人と人との関係を学び始めます。

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 

 例外は、いくらでもあります。

 

 例えば、

 ――子慈育

 の段階であろうが、

 ――親孝行

 の段階であろうが――

 子どもと、

 ――仲良くしたくない。

 と思っている親はいます。

 

 そうした親の中には――

 本当は、子どもと、

 ――仲良くしたい。

 と思っているのだけれど――

 さまざまな理由で、あまりにも生活が苦しくなっていて――

 もはや、ふつうの感じ方や考え方ができなくなってしまっている――

 という人もいます。

 

 そういう例外まで考えていったら、話がわかりにくくなりすぎるので――

 今は、考えません。

 

 そのような例外を考えなければ――

 

 ――親孝行

 の段階の親子関係は、

 ――子慈育

 の段階の親子関係と、ふつうの人と人との関係との中間である――

 といえるのです。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』