マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

なぜ“親孝行”は、さまざまで、“子慈育”は、どれも同じなのか

 ――親孝行(おやこうこう)

 の望ましい在(あ)り方は、さまざまであるので、

 ――人を大切にあつかう方法の複雑(ふくざつ)さ

 が学べるけれども、

 ――子(こ)慈育(じいく)

 の望ましい在り方というのは、どれも、ほとんど同じであるので――

 ――人を大切にあつかう方法の複雑さ

 は学べない――

 と、きのう、のべました。

 

 なぜ、

 ――親孝行

 は、さまざまなのに、

 ――子慈育

 は、どれも、ほとんど同じなのか――

 

 ……

 

 ……

 

 子どもは、親に対し、

 ――仲良くしたい

 と思ったり、

 ――仲良くしたくない。

 と思ったり、

 ――どちらでもない。

 と思ったり、さまざまであるものです。

 

 これに対して――

 

 親は、子どもに対し、多かれ少なかれ、

 ――仲良くしたい。

 と思っているものです。

 

 こうした親の気持ちは――

 8月16日にのべたように――

 親がもっている、

 ――子孫を残そうとする力

 と関係があると考えられます。

 

 この力は、ヒトだけでなく、あらゆる生き物がもっている力であり――

 この力をもっているために――

 親は、子どもに対し、どんなときでも、

 ――仲良くしたい

 と思っているものなのです。

 

 そして――

 そうした親の気持ちは――

 子どもが、まだ十分には育っていなくて、一人では、なかなか生きていけないような年令のうちは――

 子どもによって無条件(むじょうけん)に受け入れられます。

 

 たとえ、子どもが本音では、どう思っていようとも――

 です。

 

 子どもも、しっかり生きていかなくてはいけないからです。

 

 よって、

 ――子慈育

 は、どれも、だいたい同じような在り方に落ち着きます。

 

 ところが――

 

 ……

 

 ……

 

 子どもが十分に育って、一人で生きていける年令になったあとは――

 子どもは親を、自分の本音にそって、あつかうようになるのですね。

 

 こうなると、

 ――子慈育

 の段階(だんかい)は終わりです。

 

 ――親孝行

 の段階へ進んでいます。

 

 この段階では――

 親は、子どもに対し、多かれ少なかれ、

 ――仲良くしたい。

 と思っている一方で――

 

 子どもは、親に対し、

 ――仲良くしたい。

 とも、

 ――仲良くしたくない。

 とも、

 ――どちらでもない。

 とも思っています。

 

 よって――

 

 ――親孝行

 の望ましい在り方が、どれも同じような在り方に落ち着く――

 ということはありえません。

 

 それゆえに――

 

 ――親孝行

 は、さまざまである一方で、

 ――子慈育

 は、どれも、ほとんど同じなのですね。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』