マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

周の文王となろう

 中国・三国時代――

 魏(ぎ)の曹操(そうそう)は、自身を、

 ――周(しゅう)の文王(ぶんのう)

 に準(なぞら)えた――

 と伝わる。

 

 紀元前11世紀――

 王朝が殷(いん)から周へと変わった。

 

 が――

 周の始祖である文王は――

 殷の王に対し、最後まで臣下の礼を崩さず――

 

 その後――

 子の武王が殷を滅ぼし――

 それで初めて、

 ――周の文王

 の諡号(しごう)を得た。

 

 つまり――

 生前の文王は、王ではなかった。

 

 紀元前3世紀――

 秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が、いわゆる中国の君主の呼称を「王」から「皇帝」へ変える。

 

 そして、紀元3世紀――

 魏の曹操は、後漢の皇帝に対し、最後まで臣下の礼を崩さず――

 

 ――予(よ)は周の文王となろう。

 と呟いた――

 とされる。

 

 この時――

 後漢皇朝は殆ど閉じられたも同然であった――曹操が実質的に君主で、皇帝であった。

 

 が、

 ――皇帝

 とは称さず、

 ――魏王

 と称し――

 後漢の皇帝への臣下の礼を保った。

 

 ――予は周の文王になろう。

 とは――

 そうした意である。

 

 最期まで臣下の礼を律儀に保ち続けたところは――

 紛れもなく、

 ――能臣

 だ。

 

 が――

 この“能臣”は、実質的には皇帝の座にいる。

 

 たしかに、

 ――奸雄

 でもある。

 

 『随に――』