マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再び「精神の意義」へ(2)

 身体の外部において――

 状態を決める変数を x とし、時刻を t とし、その状態が実現をする確率を p (x, t) とすれば――

 時刻 t における身体の外部のエントロピー(entropy) S (t) は、高校の数学で学ぶ自然対数 ln を用いて、

  S (t) = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

 と表され――

 

 その S (t) の変化を ΔS (t) とすれば――

 身体が受け入れる“身体の外部の部分情報”の量 ΔI (t) は、

  ΔI (t) = − ΔS (t)

 より、

 

  ΔI (t)

  = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

   − ∫ p ( x; t + Δt )(− ln p ( x; t + Δt ))dx

 

 と表せそうである。

 

 が――

 実際は――

 そうではない。

 

 なぜか。

 

  S (t) = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

 に問題がある。

 

 身体の外部に在る全知全能の者にとっては――

 たしかに、

  S (t) = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

 である。

 

 が――

 身体の持ち主は、全知全能ではない。

 

 限られた知力、限られた能力で――

 身体の外部における状態のエントロピーと、その状態が実現をする確率とを見積もっている。

 

 例えば――

 身体の外部における状態のエントロピーについていえば――

 状態を決める変数 x を直に知ることはできず――

 身体の感覚器が受け取る信号を通して察するしかない。

 

 また――

 身体の外部において、その状態が実現をする確率についていえば――

 実際の確率を知ることはできず――

 身体の持ち主が主観的に見積もりうる確率で代用をするしかない。

 

 よって――

 身体の外部における状態のエントロピー S (t) は――

 身体の持ち主にとっては、

  S (t) = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

 ではなく――

 次のように表される。

 

  S (t) = ∫ q (x; t)(− ln p (x, s; t))dx

 

 ここで、

  q (x; t)

 は、身体の持ち主が主観的に見積もる確率――その状態が実現をする確率の代用とするもの――であり、

  − ln p (x, s; t)

 は、身体の持ち主が感覚器を通して察するエントロピー――身体の外部の状態のエントロピー――であり、

  s

 は、身体の感覚器が受け取る信号を決める変数である。

 

 よって――

 身体が受け入れる“身体の外部の部分情報”の量 ΔI (t) は――

 身体の外部に在る全知全能の者にとっては、たしかに、

 

  ΔI (t)

  = ∫ p (x; t)(− ln p (x; t))dx

   − ∫ p ( x; t + Δt )(− ln p ( x; t + Δt ))dx

 

 であるが――

 身体の持ち主にとっては、違う。

 

 次にように表される。

 

  ΔI (t)

  = ∫ q (x; t)(− ln p (x, s; t))dx

   − ∫ q ( x; t + Δt )(− ln p ( x, s; t + Δt ))dx

 

 『随に――』