俗に、
――巧い文章、下手な文章
などという。
文章に巧拙があることには、とくに異論もないであろう。
が――
この巧拙を、どうやって判定するかは、大問題である。
――自分の好きな文章は巧く感じられ、嫌いな文章は下手に感じられる。
という見方があるからだ。
これによれば、文章の巧拙は、文章の好悪を反映したものにすぎないことになる。
僕は、この言をいれない。
いれたくない。
文章の巧拙と文章の好悪は、あくまで独立だと思いたい。
なぜならば――
僕には、
――巧いけれど嫌いな文章、下手だけど好きな文章
というのがある。
巧いから読みやすいのだけれど、イヤな印象しか残らない――
下手だから読みにくいのだけれど、気になって仕方がない――
そういう文章である。
もちろん、これらは例外だ。
圧倒的多数は、
――巧いから好きな文章、下手だから嫌いな文章
である。
*
文章の巧拙とは、
1)文体がリズムよく整っているか
2)字数が内容に見合っているか
の二点にかかっていると考える。
1)の判定には音読がよい。
声に出して読むことで、リズムの悪い部分が露見する。リズムが悪く、何度もつかえてしまう文章は、1)をみたさない。
2)の判定には復読がよい。
繰り返し読むことで、字数が内容に比して余剰か不足かが露見する。余剰や不足のある文章は、2)をみたさない。
当たり前だが――
2)には正確な読解力が求められる。
字数はみればわかるが、内容はみてもわからない。
初歩的な誤読の何と多いことか――
より深刻なのは、1)である。
本当のリズム感は、母語以外ではわからないものだ。
第二言語のリズム感を、僕は信用していない。
ときどき、
――この英語は巧い、あの英語は下手だ。
といっている日本人がいるが――
そういう日本人の日本語は、概してリズムが酷い。
「酷い」というより、無頓着のようである。文章にリズムがあるということ自体に、思いが至っていないようだ。