――愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
とは、19世紀プロセインの「鉄血宰相」ビスマルクの言葉だそうですが――
(たしかに、そうだよな~)
と、ずっと思っていました。
例えば、津波の恐ろしさについて――
僕は、東日本大震災を機に、がらりと見方が変わりましたが――
それまでも、歴史上の事実とされる逸話などから、
――津波とは恐ろしいものである。
という認識をもっていました。
が――
実際に、去年の3月11日に、被災地で津波を目の当たりにして、
(これは凄まじい)
と、心の底から思い知ったものです。
まさに、
――歴史に学ばず、体験に学ぶ愚者
を地で行ったのでした。
それゆえに――あるいは、それなのに――
今の僕は「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の言葉に違和感を覚えています。
(そうはいっても、やっぱり体験はデカいんだよ)
と――
(歴史に学ぶことには限界があるんだよ)
と――
歴史から学ぶだけなら、たやすいと思います。
とにかく、書籍の類を丹念に読めばいいのですから――歴史好きの僕にとっては、わけもない話です。
が――
歴史に学んだことを基に、自分の言動の一切を決めることは――
そう、たやすくはありません。
とくに、歴史に学んだことが体験に学んだことに反しているような場合には、「歴史」を「体験」に優先させることは極めて困難です。
知的誠実さとか想像力とかでは補いきれない胆力や無粋さが必要とされます。
たとえ自分が「歴史」を優先させたくても、周囲がそれを許さない可能性は常につきまといます。
それでも「歴史」をごり押ししようとするならば――
周囲との深刻な軋轢に発展しかねません。
はっきり述べましょう。
僕は「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は間違っていると思います。
そんな単純なものではない、と――
正しくは、
――愚者は体験だけに学び、賢者は歴史にも学ぶ。
でしょう。
人は、誰であっても、まずは体験に学ぶのです。
その具体性や鮮烈性は、人である以上、何ものにも代えがたいのです。
だって――
そうやって人は子供から大人に育っていくのですから――
そこには、愚者も賢者もありません。